台湾旅行記 ~中正紀念堂 | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

翌日は観光。

ホテルで朝食を取りまずは「行天宮」に。

それでおみくじを引く。

あまり良くないが、引き立ててくれる人に会えば願いはかなうという。しかも婚姻は順調で、子供も順調に生まれるそう。独身の私はちょっと期待してしまう。

 

その次は「中世紀念堂」に。中華民国の旗がはためく。

中に入ると蒋介石の像がドーン!

蒋介石の評価については、賛否両論あるだろう。

台湾の人にとっては「台湾を作った人」という認識はあるそうだが、それ以上でもそれ以下でもない。

 

歴史を振り返る。

日本統治時代が終わり、中国国民党は台湾を接収した。

 

それは植民地の歴史が長い台湾の人にとっては「大陸から来た外省人」。それで国民党の統治と言えば、「犬が去って豚が来た」と言われるように決して良いものではなかった。

 

腐敗した国民党の官僚に台湾人はイライラを募らせる。

 

1947年2月28日に、闇たばこの取り締まりに端を発した「228事件」が勃発。瞬く間に台湾全土に広がりを見せた。

この時の武力鎮圧は台湾の黒歴史の大きな一つである。

 

そして中国共産党の台頭により国民党は次第に追い詰められ、最終的に台湾に逃れる結果となる。

 

そして戒厳令が敷かれ、白色テロの時代。

理由もなく捕まり処罰される。

その戒厳令は1987年まで続く。

台湾はこうした不自由な時代が長く続いた。

 

その間も中国共産党は、着々と足場を固めていった。

 

そして1950年朝鮮戦争勃発。

一定の配慮は必要としたものの共産主義は相いれないと判断。

 

1954年第一次台湾海峡危機。

1958年は金門島の戦い。

ここで日本人の根本博の指揮の元、中国共産党軍を撤退させる。

 

1971年、国連は中華人民共和国を国連に加盟させることにより、中華民国は追放され、台湾は世界の孤児となる。

 

そして様々な政治活動の末に台湾は民主主義を勝ち取った。

先にも書いたが戒厳令が介助されたのが1987年である。

 

1987年と言えば私は高校生である。

まだ記憶に新しいが、台湾の人も戒厳令が介助された時のことは記憶に新しい事だろう。

 

台湾の街を歩いていると、本当に日常生活は平和である。

観光客も多く、昼も夜も賑わいを見せている。

 

それは台湾の人が勝ち取り、育んできた賜物だ。

 

そうした状況下でも世界における台湾の扱いは冷たい。国連から追い出されたことで世界遺産的なものがあっても登録もされない。

 

全開の総統選挙の時には台湾をぐるっと囲んで中国が軍事演習を行って脅しをかける。

 

今も戦争は終わっていないのだ。

 

政治的な話をすると、ここ最近は国民党ではなく民進党から総統が選ばれている。しかし日本で言う国会議員は中国に近いとされている国民党が第一党である。これは国のかじ取りは民進党、日常の経済的な話では国民党と考えているという。普通に考えれば国民党が相当になっても良いのだろうが、民進党から総裁が出るという事は、それだけ台湾人のバランス感覚なのだろうと思う。そうした影響もあるだろうが、一人の人間を崇拝するという事に見直しがされているという。

 

ここでの名物は銅像前ホールでの衛兵による警護、担当交代の儀式。式典は厳粛な雰囲気のなか、精密な動きと完璧なタイミングで行われ、その一糸乱れぬ衛兵たちの静粛な姿をひとめ見ようと、多くの観光客が中正紀念堂を訪れていたが、2024年7月で廃止になってしまった。

その代わりに今は屋外で新しい形として「儀仗隊による屋外行進」を実施している。

 

やはり残すべきものは残して、という事なのだろう。

こういう所でも日本は何処で道を間違えたのかと思ってしまう。

 

そんな事を考えた観光初日の午前である。