(1)人は誰でも高齢者になる。
この記事を予想する。
①子どもの立場で見る。親が要介護状態になり介護生活が始まる。やはり大変になる。家で面倒を見切れなくなり、やっとの思いで施設に入所。そこで問題を起こされて退去を言い渡される。
②親の立場で見る。自分の身体が不自由になり、頭もボーっとするようになり要介護になる。子供に面倒をみてもらうが、子供も大変という事で施設に入る。しかし施設の職員や利用者が合わず、文句も言いたくなる。出来れば家に帰りたい。そこで退去を言い渡される。
高齢者にすればもっと優しくしてくれ。
子どもにすれば言う事を聞いてくれ、面倒をかけないでくれ。
どちらの立場で見ても、やはり同居というのは難しい。
人が二人以上入れば上下の立場が発生する。どちらが言う事を聞かせられるかのマウントの取り合いになる。
やはり施設入所というのは今なお必要な「姥捨て山」であるし、それで良い。「人権」「生き甲斐」などのポジティブなワードはあろうが、それは問題を起こさない、穏やかな環境での話であって、問題のある施設はただの収容施設である。
(2)施設での問題
例えば病院でも4人部屋というのがある。病院であればうるさくしないようお互い気を使い、テレビもイヤホンを使うなどする。しかも入院期間はそれなりに決まっているので、ある程度我慢すればいつかはいなくなる。それでも同じ部屋のあの人が嫌だから、部屋を変えて欲しいとか、あの人をどうにかして欲しいという要望は発生する。
しかし施設は部屋替えなどはあるだろうが、基本的には部屋のメンバーは固定である。
そうなると「無くて七癖」で、どうしても部屋の人は気になるもの。共同生活というものはそういうものである。
施設での問題は私的には大きく分けて二つ。
一つは暴力。
もう一つは金銭問題である。
暴力問題はやはり共同生活の中でのマウントの取り合いの中で発生する。コロナ禍で「自粛警察」というのがあった。公共の場でマスクをしない人に注意するのだが、中には相当荒っぽく言う人もいたようだ。このように怒っても良い大義名分があれば、例え人を傷つけようが、それが正義だと人は思う。そういう「なんちゃって正義の味方」は共同生活の場でもいるのだ。
もう一つの金銭問題。
施設は生活に必要なものは用意されているから嗜好品の購入など以外は特にお金はかからない。しかし中には足りなくなる人もいるので、そうすると他の利用者からお金を借りる人もいる。
中には女性で胸を触らせてお金を稼いでいる人もいた。
何とも言えない気持ちではあるが、「三途の川を渡るための六文銭」ではないけれど、やはりお金はいつでもどこでも必要なものなのだろう。
(3)行き場のない高齢者
このように家でもダメ、施設でも問題を起こしてダメとなったらどうなるのだろう。
最近ではユニット型など個室対応をしているところもあり、そのような利用者同士の諍いが無いように工夫しているところもあるが、全てがそうではない。従ってそういう施設に空きが出るまで誰かが貧乏くじを引くことになる。
家族がいれば押し付けることができるが、身寄りのない人や受け入れを断られた人はどうなるのだろうか。
施設が貧乏くじを引くことになる。
綺麗事を言えばだが、どんな人でも理解を示せばそれなりに帰してはくれるだろう。しかしその思いが通らない時はいくらでもある。その時の行動が他者に迷惑をかけるとなれば、それは隔離するしかない。
昔、どうしようもない子供が寺に預けられたように、厳しい環境だったり、お坊さんの説法で目覚めたように、本来はこうした場所が必要だと思う。
おそらくそんな老後を送りたいとは誰も思わなかっただろうが、思うようにならないもどかしさや苛立ちはそのようにさせるのだろうと思う。
もし自分がそうなったら、ありがたい話を聞かせてくださいと思う・・・かな?