人は生きていく中でそれぞれの節目で思うところがある。
学生には学生の、社会人には社会人の。
子どもとして、親として、そして親が介護状態になったらまた子供の立場として
そして還暦を迎えるとか
そういう何となく意識付けした時の一つに「死」というものを遥か彼方にでも意識する瞬間というのがあるのだと思う。
ケアマネとして高齢者と接していると、高齢者の方も考えたくはないけれど、という枕詞は付くもののやはりうっすらとは考えなくてはならないだろうなあくらいの意識は持っているよう。
逆に家族としても、葬式はどうしたいとか、お墓はどうとか、そういうものは残しておいて欲しい。我が家はそれが無かった(宗派すら分からない)ので、最終的に適当な感じになってしまった。それはそれでありだとは思うけど。
それで、たまに「終活カウンセラー」という講座の案内が送られてくる。
以上の事から、確かに自分が死んだ後の手続き的な希望は残しておいたほうが良い。
しかし、エンディングノートを残すとか、墓を建てておくとか、確かに必要な事ではある。ついでに遺書も残しておけば尚の事良い。
でもこれだったら誰でもできそうだよね。
それと文中にあるように
「わたしが自分の死で考えることは、「終活」とはなんの関係もなく、たったひとつ。残る者に金銭の負担をさせないように、葬式無用、戒名不要をいっておくだけである。墓はいらない。延命治療はもちろん断る。」
これも手続きの一つ。
しかし、作者の言うように「あほらしい」とばっさり切り捨てるには違和感がある。
というのも、事務的な云々は置いておいて、人が死を迎えるという事は宗教的な要素も随分絡んでくるからである。
宗派によって死後の世界は変わる。
いわゆる輪廻転生説、永遠の安らぎを得る、その家の守り神になる。そうした考えからくるスピリチュアルペインのアプローチの仕方は変わってくるのだと思う。
勿論、事務的なことをすべて終えることで安心する人もいる。
私が勤めていた老人ホームはお寺が経営していたところなので、葬式も全部やってくれる。そうしたことが安心につながっていた人がいたことは事実だ。
私についていえば
死んだとは跡形もなく処分してもらいたい。
骨は海洋散骨。
皆の記憶から消えて構わない。
私は一人、静かにじっとしていたいと思う。
それがあれば、この世での「忘れ物」は無いように思う。