新年あけましておめでとうございます。
昨年より再開したこのブログ。多くの方にお読みいただき、コメントをいただきありがとうございました。
本年も引き続き、ご指導ご鞭撻賜りますよう、お願い申し上げます。
さて、新年は例年通り靖国神社へ初詣。
去年と同じような時間に行くが、去年よりも空いている。
毎年家まで歩いて帰るのだが、今年は足首の故障で家まで歩くのは困難。
それでも散歩はしたいので、母校の高校のあたりを散策。
立ち並ぶ家も変わっていて、ちょっと迷ったが、やはり通いなれた道は何とかなるもの。
高校の時に通っていた角の店もあり、ちょっと懐かしい。
あの時に食べた綱のおにぎりおいしかったなあ。
普段はそんなに出歩かないので、初詣の時くらいが様々ノスタルジアに浸る機会になっている。
私はいわゆる第二次ベビーブームの世代。
子供のころに見た青春ドラマのような、明るい高校生活を思い描いていたものだったが、わが校はもともと悪い学校だったらしく、校則がやけに厳しい。
頭髪や持ち物、学校生活に至るまで。
そして、大学付属校だったせいか、他大学への進学率が低かった。
色々と窮屈な高校生活だったように思う。
今では良い思い出ではあるが、時として、なんであの学校を選んだのだろうと思う時もある。
それは一つとして、様々なところで不安が大きかったのは事実である。
親に言われたこと、先生に言われたこと。
周囲の大人に言われたことなど。
文中のように、「生きることに対する根深い不安」は本当に強かったと思う。
進学できなければ
会社の就職できなければ
結婚できなければ
子育てしなければ
親の面倒を見なければ
こんな不安だったろうと思う。
おそらく、誰もが持つ不安だろうとも思う。
成功願望。
成功して周りに評価されたい。
すごい!って言われたい。
たくさんお金を稼いで、威張りたい。尊敬されたい。
そんなことが目標になっていたのだろうと思う。
一言でいえば、威張りたかったんだと思う。
それは抑鬱されたものが解放された自分の一つの答えだった。
威張ることが生きる意味、そんな生き方を目指していたんだろうと思う。
それは一つの生きる原動力にもなりうるものだし、ただ人を見下す力にもなりうる。
ここ数年、50歳という年齢を区切りに色々と考えてきた。
答えが出たわけではない。
しかし、この文にあるように、作者の「諸行無常」という言葉のとらえ方。
「人は、自分で望んだわけでもないのに生まれてきて、なんの根拠もない人生を生きていかなければならない。そのやるせなさや悲しさを抱えて生きていくのだと、私に教えてくれたのは釈迦その人でした。
生きることに意味がないとは、救いのない言葉だと思うかもしれません。
しかしそうわかれば、前向きに「意味のある人生」や「有意義な人生」を送らなければと、肩ひじ張ってがんばらなくてもよくなります。「生きる意味を見つけなければ」とやっきになる必要もありません。」
あるがままに生きようと思う。
今年のキーワードは「諸行無常」
