恩師梶矢文昭先生との 最初の出会いは

広島の矢賀小学校の5、6年での担任として

でした。

広島大学を卒業して間もない 若々しく 

爽やかな先生で みんなに人気がありました。

私も大好きで 60年近くたった今でも

懐かしく思い出します。

二度目のめぐり逢いは 私が広島大学時代

教育実習で伺った 広大附属小学校でした。

その当時 偶然 先生は そこに配属されて

おられ、久しぶりに再会して 嬉しかったのを

覚えています。

そして それから 45年経った今、 三度の

めぐり逢いを果たすとは❣️

宇宙の粋な計らいでしょうか?🌈



何気なくググったところ 先生の情報が 

次々に目に飛び込んできたのです。

三浦春馬君の「日本製」の中にも 懐かしい

先生の姿を発見❣️

先生の被爆体験を 今初めて聞くことになり

ました。

語り部として 精力的に活動されている先生を

見て 感動しました。

そして よくぞ 生きていて下さったと

天に感謝しました。

あの原爆が炸裂した広島で 奇跡的に

生き抜いてこられた先生。

教師を退職されてから 広島を語り継ぐために

その生をまっとうしようとされている姿に

ただただ頭が下がります。


そしてそして そんな先生にぜひとも会いたい!

という強い思いが叶い 昨日電話でお話しする

ことができました。(連絡先を入手するのが

思いの外大変で 諦めかけていたところ 

救いの手が!)

先生は すぐに私のことをわかって下さって

とても喜んで下さいました。

懐かしい先生の声に 涙が溢れました。

思い出話に花が咲き あっという間に あの

懐かしい小学校時代にタイムスリップ

しました。

そして 来月 会いに行くことを約束して

電話を切りました。


今 この時、 こうして また 先生に

めぐり逢うということは きっと 今が

そのタイミングだということでしょう。

今後の展開が 楽しみで仕方ありません❣️

そして また 広島に あの八月六日が

やってきます。





私が決して忘れられない 広島の

小学校時代の恩師 梶矢文昭先生は

その後 どうしていらっしゃるのか、

時折 思い出してはいたものの、

もう 40年以上も経っています。

その後の先生の消息を知る術もない

そう 思っていました。



つい一昨日のことです。

なぜかまた 先生のことを思い出して

スマホで 何気なく ググってみたのです。

すると、思いがけず 梶矢先生が出ている

記事やYouTube が 目に飛び込んできました。

え! これって! 

あの梶矢先生だよね!

びっくりしました。

夢中で それらを順に読み漁りました。


先生は広島の教育委員会を離れたあと

「広島を語り継ぐ教師の会」を発足された

そうです。

当時全く知らなかったのですが、 先生は

被爆者でした。

子供たちに 自ら描いた紙芝居を使い

原爆の悲惨さや平和の大切さを 伝え続けて

いらっしゃるのです。

私は Youtubeで流れる 先生の あの

懐かしい姿と声に 思わず涙が溢れました。

「梶矢先生!」と 叫んでしまいました。

それらの映像や記事は 新しいものでも 

数年前のものでした。多分 八十を

超えた年代で お年を召されてはいますが

声はあの頃のように張りがあり 言葉も

力強く 優しさと愛と情熱が伝わって

きました。

そして ある記事で 三浦春馬君の「日本製」

のことが書かれていました。

当時 三浦春馬君は 日本全国を回っていて

その土地の伝統を伝えるべく いろいろな

品物や技術を紹介して 「日本製」という

本にまとめています。

広島は何を紹介しようかと考え 春馬君は

やはり原爆だと 思ったとか。

そして なんと 梶矢先生に白羽の矢が立って

春馬君が 先生のお宅を訪れたそうです。

いろいろお話しされたようですが、

先生は春馬君のことを 素晴らしい青年だと

感心されていました。

その時 もういつ亡くなってもおかしくない

末期癌の奥様を 春馬君は力づけたそう。

奥様も先生も とても喜び その3日後 

奥様は静かに旅立たれたそうです。


先生に関する こんな情報に なぜ 私は

今まで触れることがなかったのか?

そして なぜ今 こうして 数十年も前の

過去の記憶と共に 蘇って来たのか?

きっと何か意味があるのでしょう。

なんと 先月 NHKの「最後の授業」という

番組に 先生は出演されたそうです。

大腸癌を患っていらして 最後のメッセージを

伝えるためだったそう。

この番組はなんとか 観ようと思います。

そして できれば ぜひ 先生に会いに

行こうと考えています。

今 連絡先を知る方法を 必死に模索中です。

この結末 また ブログにて✌️💕








私は広島で生まれました。

広島に原爆が投下されてから 僅か10年後

平和公園の近くの日赤病院で生まれました。

小学校、そして 中学校の途中までを

広島で過ごして その後 福岡に引っ越し

ましたが、大学で また 広島に戻りました。


広島で過ごした小学校時代を思い出すと

忘れられない先生がいます。

梶矢文昭先生。

五年、六年の担任だった梶矢先生は 

広島大学を卒業して 教師になって まだ

4、5年の 若く爽やかで 素敵な先生でした。

優しく カッコよかったので とても人気の

ある先生でした。

私も大好きで 学校に行くのが楽しみでした。

同じく教師をされていた奥様も素敵な方で

お宅に遊びに行ったことも いい思い出です。

私が 上手ではないけど 文章を書くことが

割に好きになったのは 先生がたくさん褒めて

下さったから。

そして 絵を描くことが好きらしく 何とかの

手習いで デッサンを学びたいと 今

思っているのも 先生が 私の絵を褒めて

下さったから。

本当に感謝しています。

今でもよく覚えていますが

家庭訪問の時 私の母と意気投合して

2、3時間も話し込んで 帰られたのは 

もう暗くなってからでした。

後々 母も 時に触れて 先生のことは

懐かしく話していました。


広島は今は平和都市として 世界に知られる街

です。

私が小学生の時 平和教育という授業もあり

夏休み中の 八月六日も登校して 犠牲に

なられた多くの方々を悼み 特別な授業が

あったことを覚えています。

広島に生まれ 育った人々は 特に 平和に

対する特別な思いがあるのではと 思います。



私は中学生から 福岡に引っ越しましたが

その後 大学で また 故郷広島に戻ることに

なりました。

そして なんと 教育実習で また 梶矢先生に

再会することに!

教育実習でとてもお世話になり その後 時々

ランチやお茶を御馳走になったのを 覚えて

います。

大学を卒業して 福岡に戻ってからは 

お会いすることもなく そのうち 音信も

途絶えてしまいました。

先生は 市内で 教頭 校長の職を経て

教育委員会に入られたことをききましたが。


あれから40年以上が経ち あっという間に

私も 高齢者の仲間入りをしていますが、

梶矢先生のことは たまに思い出して 

どうされているかしら? お元気かしら?

と 懐かしく 当時のことが 蘇ってきます。


そして 昨日 ある 小さな奇跡が❣️🌈

この結末はいかに💕


             (続く)