【 45 】

 

 

 

8月 12日(火)  21:38

 

 

 

  

 

菊池と合流する。

 

小銭を手にした男の表情は明るい。

 

古びた館の脇を抜け、通りに出る。

 

 

「あの狐と何を話していたんだい?」

 

菊池の声が闇夜に小さく響いた。

  

「またリクルートさ。 稼げる兵隊を増やそうとしているみたいだ」

 

「何をそんなに焦ってんだろうね・・・・・弟が言ってたぜ・・・・・奴らとうとう中国・北朝鮮のシャブにも手を出し始めたらしい・・・・・・ありゃ危ねえよ、西日本じゃサツが最も目を光らせている案件だ」

 

「・・・・・・・・・あの男・・・・・・・・」

 

「ん?」


「・・・・・・・・・・何かに追われていることは確かだ」

 

「まあ年中借金取りに追いかけ回されている俺も人のことは言えねえがな、かっかっか。 それよか、今日こそ陳さんとこにでも顔出すか」

 

 

 

 

 

異人館通りから路地へと入る。

街灯は無い。

両脇の民家の窓から漏れ落ちる灯りを頼りに歩く。

 

荒い造りの民家からテレビの音が薄っすらと聞こえる。

神戸、山手特有の寂寥の空間に織り交ざる生活感。 

  

遠くに小さな暖色の灯り。

   

神戸には隠れ家を謳うBARは多い。

 

BAR 『北野Rail』。

 

しかしここは・・・・・・まず辿りつくことは出来ないであろう。

 

暖色の灯りのたもとに辿りつく。

ひと息ついて乱れた呼吸を正す。


汗をぬぐう

  

看板は無い。

相変わらず、来る者を拒むかの如く重厚で無愛想な蒼い木扉。

 

押す。 開き、軋む。 バニラの匂い。

 

一歩足を踏み入れ、暗い店内に目を慣らす。

カウンターの中に人影。

 

「・・・・・いらっしゃいマセ」

  

野太く、枯れた声。 

 

向こうはこちらを視認したようだ。

歩くと床が軋み、鳴いた。

 

アップテンポなジャズが流れ始めた。 

どうやら他に客はいない。 

 

「お邪魔するよ、陳さん」

  

菊池のあけっぴろげな声が店内に響く。

 

「二人にしては早い時間ヤナ」

 

浅黒く太い手が「ここに座れ」とばかりにカウンター席に誘導する。  

ようやく陳宏偉の顔面を間接照明の下で確認した。

 

歓迎の意を込めた笑み。

無数の深い皺が皮膚にめり込んでいる。

100年ここに立ち続けているかの如きたたずまい。

 

 

「菊ちゃん、雄介、ソノ様子は珍しく勝ったんヤナ」

 

「くっくっくっ分かるかい、陳さん。 大勝よ、大勝。 雄介が来てくれるとここんとこ、ほんと負けねえんだよ」

  

「じゃあ、祝いにシャンパンでも抜キマスか」

 

「か~やっぱ分かってるね陳さんは、、、客の気持ちがさ」

 

一枚板のカウンターに3つのシャンパングラスが運ばれる。

6分目まで注がれた透明な液体。無数の気泡。

 

「あれれ? 陳さんも飲んじゃうのかい!?」

 

「モチロンやがな」

 

陳が童子のように顔をくしゃくしゃにする。

屈託のない笑み。

  

「がはは、結構なこった、それでは乾杯!」

  

菊池が音頭をとった。

3つのバカラグラスが間接照明の下でチン、と音を鳴らした。


 

 

 

  

BAR 『北野Rail』・・・・・菊池に連れられ、初めて雄介がここに来たのはちょうど2年前の夏であった。

 

1995年、1月17日の悪夢から約半年が過ぎていた頃だ。

  

あの時も、客は誰もいなかった。

 

「・・・・・いらっしゃいマセ」

 

同じ挨拶、同じ訛りのアクセント。

 

「この高台からワシは神戸の復興を見守り続けてイクヨ」

  

 

   

  

 

  

 

  

あの時と変わらぬ店主の顔。

 

 

雄介は煙草に火をつけた。

 

 

変わらぬ安堵・・・・・・・

 

 

変わらぬ焦燥・・・・・・・

 

 

 

   

 

  

  

  

「か~最高だ、最高に美味い。 雄介、ギャンブルの偉大な3つの楽しみを知ってるかい?」

 

「何ですか」

 

「イチ、賭場に足を踏み入れる瞬間のあの高揚感。 ニィ、連勝の果てに辿りつく、ここぞのビッグBETを仕留めての雄叫び。 サン、勝利の美酒をこうして仲間とかっ喰らうこの瞬間。 どうだい?」

 

「菊ちゃん、コノ前は 『ギャンブルは負けている時こそオモシロイ』 言うてたヤナイの」

 

陳がパイプを燻らせてほほ笑んだ。

手にはアイスピック。

  

氷がどんどんと球体に変化していく。  

ロックグラス用の丸氷。 

 

淡々と為される職人の技。

節くれだった手の流麗で繊細な作業。

 

 

「何言ってんのさ、陳さん。 負けてて面白いはずがないじゃないの。 しっかし、今日負けていたら本当に危なかったよ・・・・・・・・崖っぷちのうっちゃりってのはこのことさな」

 

「菊ちゃん、そういや震災の被災者援助資金をモロウタ言うてたケド、それはドナイしたの?」

 

「ん!? そんなんあったっけ!?」

 

「菊池さん、マカオ行って1日で負けちゃったんだよな」

 

「それは言いっこなしよ、雄介ちゃん」

 

「毎日タラフク酒あびて、博打打ってシアワセせなやっちゃ」 

 

「陳さん、おかわり!」 

  

 

男達の笑い声が店内に響いた。

   

 

 


 


日付が変わる頃、菊池が酔い潰れた。

カウンターに突っ伏し、深い呼吸。

背中を浮き沈さみさせている。

  

「マッタク、騒ぐだけ騒いでもう寝てしまったんカイな・・・・・しかし、とめはせえへんけど、最近の菊ちゃんはホンマ破滅的な飲み方をシヨル・・・・・・やっぱり、去年女房子供に逃げられてからスコシおかしくなってイルな・・・・・」 

 

 

陳が菊池と雄介に水を用意した。 

グラスの側面をつたって水滴がカウンターの木目に染み込んだ。

 

  

漂う音。

フレディ・ハバードのトランペット独奏。 

 

  

 

陳がパイプ椅子を開いて腰を下ろした。 

カウンターを挟んで陳と雄介が向かい合う。

 

 

 

 

 

 

 

「ところで雄介君・・・・・・」

 

 

  

 

 


陳が静かに声を発した・・・・・

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・シンコペーション・・・・・