【 46 】

 

 

 

8月 13日(水)  0:08

 

 

 

  

 

伏せた視線。

空間に静寂が横たわる。  

  

 

  

 

 

「・・・・・・・・・・何か進展は?」

  

  

太く、奥まった声。

 

陳の窪んだ眼球が静かに雄介に注がれた。  

 

 

  

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

「余計なコト聞いてしまったか?」 

 

 

「・・・・・・・・・いえ・・・・・・・・・」

 

  

雄介は指でロックグラスの氷を回した。  

  

  

「特には・・・・・。 まあ、もう・・・・・・・駄目かもしれませんがね・・・・・・」

 

 

 

雄介はゆっくりとアイラモルトのボウモアを喉に流し込んだ。

 

 

 

「キミの目は・・・・・・・・・・微塵もそんなコトを考えているようにはミエヘンけどな」  

 

 

 

レコードの間断。

ジャズ・インストルメントが途切れた。

 

遠くで空調機器が疲弊した音を吐き出している。

老婆がむせぶかのようなしゃがれた音。

   

   

  

  

「そろそろ帰りますよ」

 

雄介が立ち上がった。

 

「ソオカ・・・・・・・・雄介君、いつもキクが迷惑を掛けてすまんね」

  

「いえ・・・・・・・菊池さんの世話も嫌いじゃないですよ」

  

「・・・そっかそっか、ソレ聞いたら喜ぶで~キクちゃん」  

 

 

陳がチェリーパイプを銜える。

スモークが揺らめく。 

その波間を漂うかのように店内にマイルスが流れた。

  

  

 

 

菊池を起こし、席を立つ。

微かな頭痛と鼓動の乱れ。

 

粘る菊池を強引に店外に連れ出す。

    

「ホンマおおきに、また来てや」

 

陳が店先まで見送ってくれた。

 

「陳さん、明日もおいらは来ちゃうぜ」

 

眠りから半分だけ目覚めた菊池の場違いな声が路地で反響した。

  


 

 

 


坂を下り、中山手通りで菊池をタクシーに乗せる。

 

「雄介、じゃあな・・・・・」

 

回らぬろれつ。

無愛想な運転手の険しい視線。

   

「菊池さん、せっかく勝ち取った金、落としちゃ駄目だぜ」

 

菊池は半目でニヤリと笑うと小さく左手をあげた。

緩慢な動作でシートに体を沈める。

タクシーのドアが閉まると同時に菊池の眼が閉じた。

 

 

  

 

 

 

携帯――着信――ゆかり

 

取らずに尻のポケットに放り込んだ。 

もがき喘ぐかのように携帯が十数秒、震え続けた。

 

鳴り止んだのも束の間、数秒後に再び携帯が震動する。    

構わずに中山手通りを東へ歩く。  

  

地表の熱が上空へと静かに放射され、空から降り注ぐ蒼い粒子が街中を闇で覆っていた。 

  

店を出る時から始まった頭痛が止まない。 

携帯の震動は収まった。 

   

虚しく輝くネオンが禍々しいムードに街を染めている。  

人はまばらだ。

  

 

 

 

前方から男が二人。

一人はチビで千鳥足。もう一人はノッポ。携帯電話に大声を発している。

凸凹のチンピラ。

  

すれちがいざま・・・・・

 

オマエ ミチヲユズランカイ ボケガ

 

千鳥足のチビが発した怒声。

タンクトップからのぞく不似合いに分厚い筋肉が黒光りしている。

耳元なのに遠くで聞こえた。

  

シャツの後ろが引っ張られる。

同時にでん部に衝撃。

  

オイワレ! キコエテンノカ 

 

幾分近くなった酒臭い声。

振り返るともう一撃。  

左の太股。

蹴られた箇所に熱が生じる。

 

  

殴る。

チビの鼻っ柱。

拳がめり込んだ。

激しく驚いたチビの表情。

鼻を押さえて数歩の後ずさり。

血走った目に涙。


押さえた手の上からもう一発を叩き込む。

何かが砕ける感覚。

男の呻き。

揺らめき。

血。

 

 

おい、何してんだよてめえ! 

 

携帯のノッポが異変に気付き、飛び込んでくる。

ようやく正常に鼓膜が反応しだした。

頭の血管が脈打ち始めた。

至近距離。

ノッポの首を抱え込んだ。

反転して膝で腹を突き上げる。

強く。更に強く。

細長い身体が九の字に。

男の手から放たれた携帯が地面を滑っていった。

唸り声と共に男が口を開く。

茶色い吐瀉物。

ミゾオチにもう一閃。

ゲロを撒き散らしてぶっ倒れそうになるノッポを路地に放り込んだ。

 

胃を押さえながら倒れこむノッポの顔。 

嗚咽。 

顔面にこびり付いた苦悶と恐怖。 

  

地面を駆ける音。

背後からの突進。

口の周りを赤く染めたチビ。

汚れた手で握り締めたナイフ。

 

不慣れな握り。

予想通りの経路。 

直突き。

 

かわし、殴る。

コメカミに掌を打ちつける。

倒し、蹴る。

強く、強く蹴りつける。

無心。

ゴキっと鈍い音。

チビの頭部がアスファルトとかち合った。

唸り声。

抗っていたチビの両腕が小さく痙攣した。

    

ユルシテクレ 

   

後ろから懇願の声。

ノッポが地面に這いつくばりながら。 

必死の形相。

何回か聞こえていた。

 

ユルシテクレ

  

水の中で音を聞く感覚。

幾層もの膜が覆う。

  

ユルシテクレ 

 

ようやく聴覚が認識した。

あばらの折れた男の掠れた声。 

   

路地の向こうから遠巻きに数人が見ていた。

離れた。

急ぎ、その場を離れた。

路地を出て通りを渡り、再び路地へ。

闇に浮かぶド派手な看板。  

原付とゴミ箱で閉ざされた小径。

ゴミ箱を蹴り倒して突っ切る。

遠くでパトカーの音。

右の拳が疼く。

こびり付いた血。

破けた皮膚。

 

急ぎ、歩く。

 

闇から闇へ。

 

 

  

 

 

 

フラワーロードに出たところで、歩く速度を緩めた。  

歩道にはイカレタ顔に金髪を乗っけたホストが2人と、それに呼び止められている若い女が2人。

 

幾分か山手に上がってからフラワーロードを横断した。

依然として人通りはまばらだ。

 

噴き出した汗がシャツを濡らしていたが、体の芯がやけに冷えていた。

 

ひどい喉の渇き。

  

耳元を飛んでいる蚊を握り潰した。

  

  

 

 

 

布引町のマンションに戻ったのは午前2時を過ぎた頃だった。

  

 

 

ゆかりがまだ起きていた。

 

 

  

――なんで携帯出んかったの?今日はなんの仕事してたの?―― ・・・・・・・・・・・ ――黙ってたらわからへんやん、何してたの?何その右手、怪我してるやん、大丈夫? ねえ、いつもどこで何をしてんの?もう、ぜんっぜんわからへん、雄介の生活――疲れている・・・・・放っておいてくれないか――何よそれ!私がここにいるのがそんなに迷惑!?そりゃ勝手に居ついたのは私やけど、でもそんな扱い方ひど過ぎるわ!――そうじゃない――じゃあ何なん?土日も全然家におらへんし、何でそんなに出歩くの?ここんとこ全然2人でいる時間なんてないよ――苦手なんだよ、狭くて静かな場所にいるのが・・・・・――何それ、意味わからない―― ・・・・・・・・・・ ――ねえ雄介、少しでもいいから私のことも気にしてよ・・・・・雄介の心に私、触れたことないよ―― ・・・・・・・・・・ ――じゃあ一つだけお願い。次の日曜日、久しぶりにデートして欲しい。仕事終わってからでいいから―― ・・・・・ああ・・・・・いいよ――

  

  

   

 

 

 
 

 

 

 

・・・・・ウシナッタユビガ、ウズク・・・・・