【 31 】




1981年(昭和56年) 1月 21日  16:38

  

 

 

 


出麹はサードベース横のフェンス戸を開き、グラウンドに足を踏み入れた。

茶色く汚れたボールを拾い上げようとする少年を注意深く観察しつつ、ホームベース方向に歩を進めた。

 

 

少年の吐く息の白さを確認出来る程の距離になると、出麹はその投球フォームの美しさに目を奪われた。

 
 

さすがに沢村泰介の息子である。

 

 

少年は真新しく光沢のある、真っ黒のグローブをはめている。  

父親が枕元に置けなかったクリスマスプレゼントであった。

 




「おい、相手してやろうか」

 




投げることに夢中になっていた沢村雄介は、唐突に背後から飛んできた声に驚いた。

寒さなのか、体が火照っているのか、振り返った鼻先と頬は赤味を帯びていた。

 


 

「こいよ、大エース」


 

 

出麹は左手を大きく振り上げた。

 

 


「思いっきり投げてみろ!!」



 

身動きをしない雄介に向かって出麹はより一層の大きな声を飛ばした。

雪と静寂に包まれたグラウンが残響を包容する。

 

 

出麹は自分がこれ程大きな声を発したことに、自ら戸惑いを覚えた。 

その言葉に若干の反応を示した雄介は、未だ表情無くその場に立ち尽くしていた。

 

 

脇道を茶色い車が走り抜けた。 

タイヤに弾かれた雪水が、澱んだ音と共に飛び散る。

 


 

「どうした、君の球なんか素手で充分だぞ」


 

 

出麹は一歩二歩と雄介に歩み寄った。

グラウンドの隅、二人はおよそ二十メートルの距離で対峙した。








その瞬間・・・・・








ふわりと茶色いボールが空に浮かんだ。








 

小雪の合間を縫って、ボールは山なりの軌道で出麹に向かって飛来する。









ゆっくり、まっすぐに、ボールが回転している。


 





パシッ







大きな両掌に吸い込まれたボールが、回転力を失い、乾いた音を響かせた。

出麹は一歩も動くことなくボールをキャッチした。


 

雄介の投球は正確に出麹の胸めがけてコントロールされていた。

 



「っつ! 汚ねえボールだなあ!」


 


出麹は苦笑と共に、ボールに付いた泥をズボンでぬぐった。

 

その最中、出麹はとある事実に気付く。




          指




前方に立つ雄介の右手小指には包帯が巻かれ、その姿形は極端に短くなっていた。 

厳冬の岩窟で父親を発見し、その頭部を抱き続けた少年は、小指の大半を失っていた。




投げることに支障はないのだろうか・・・・・・





出麹は振りかぶると、少年の父親に指導されたとおり、テイクバックを大きく取ってボールを投げ返した。 

ボールは彼の意に反し、大きく右に逸れ、バックネットまで転がっていった。

 

 

雄介が小走りでボールを追った。

今まで無表情だった雄介が、ボールを追う時には少し笑ったように見えた。

 

 

いっそう泥にまみれた軟式ボールを雄介は手に取り、出麹同様ズボンにボールを擦り付け、汚れをぬぐった。

 




「すまん!!雄介君」





・・・・・少年の父親。

 

試合前、新入りで相手の見つからない出麹を沢村はよくキャッチボールに誘った。

コントロールの定まらない素人のボールは当然方々に放られ、そのたび沢村は笑いながらボールを追いかけていた。 

ユニフォームのズボンで転がったボールをきれいに拭い、「ドンマイ、でこちゃん!」と大きな声で励ますのが毎度の光景であった。












再び出麹に山なりのボールが投じられる。


 








今度はボール本来の白い部分が見え隠れしていた。









宙を舞うボールから視線を外した出麹は、そっと雄介の表情を見据えた。








 

自分の投げたボールの行方を追う少年の瞳は、細雪を球内に反射させながら、澱みなくキラキラと透き通っている。 










重なる父と息子の面影。

 

 






ゴツッ







鈍い音と共に額に衝撃が走る。

 

 


 

 

 

ボールがいつのまにか出麹の頭部を直撃していた。







 

衝撃と共に一瞬視界が揺れたが・・・・・・・・・すぐに白い歯を覗かせた雄介の笑顔が目に入った。





 

 







いつのまにか雪が降り止んでいた。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

・・・・・イマダフユウスル、ササメユキノキオク・・・・・