我慢しているという
自覚がない我慢があります。
苦しいとも思っていない。
つらいとも感じていない。
ただ、これが普通だと思っている。
でもその「普通」が、
実はずっと自分を削り続けていた。
そんなことに気づく日が、
人生の中で必ず一度はあります。
我慢は、いつも
「当たり前」という顔をしてやってくる
私にも、当たり前だと
思っていたことがありました。
家族のために、
自分の気持ちを後回しにすること。
やりたいことがあっても、
家族の都合が優先。
本当はそう思っていなくても、
場の空気を壊さないように合わせる。
自分が我慢すれば、
みんなが穏やかでいられる。
それを我慢だとは思っていなかったです。
愛情だと思っていました。
家族を大切にすることだと思っていました。
それが「ちゃんとした私」の
在り方だと思っていました。
気づいたのは静かな時間の中でした
ある時期、
立ち止まらざるを得ない時間がありました。
忙しさがなくなって静かになった時。
久しぶりに、自分の内側と
向き合う時間ができました。
そこで浮かび上がってきたのは、
ずっと押し込めていた感情でした。
本当はこうしたかった。
本当はこう感じていた。
本当はこれが嫌だった。
言葉にするのも怖いくらい、
たくさんの「本当は」が出てきました。
そしてその時、初めて気づきました。
私はずっと、我慢していたんだと・・・
我慢だと思っていなかっただけで、
確実に、自分を犠牲にし続けていました。
なぜ我慢を我慢と気づけないのか
我慢を我慢と気づけない時、
そこには必ず「正当化」があります。
家族のためだから仕方ない。
これが愛情というものだから当たり前。
自分さえ我慢すれば丸く収まるからこれでいい。
その正当化が、我慢に
「当たり前」という名前をつけます。
当たり前になった我慢は、
もう我慢として認識されなくなり、
ただの日常になります。
でもその日常の中で、
じわじわと自己一致が崩れていきます。
本音と行動のズレが積み重なっていきます。
そしてある日、
説明のつかない疲れや虚しさとして、
表面に出てきます。
我慢の正体は、
自己犠牲という名の他人軸です
我慢の正体に気づいた時、
私はこう思いました。
私はずっと、
自分ではなく他人を基準に生きていた。
家族が穏やかでいられるかどうか。
周りが納得するかどうか。
誰かの期待に応えられているかどうか。
自分がどう感じるかは後回しでした。
自分が何を望むかなんて
かんがえなくなっていました。
これは優しさに見えて、
実は自己一致から最も遠い生き方です。
自分の本音を無視し続けることは、
自分を裏切り続けることだからです。
我慢の正体に気づいた後どうするか
気づいたからといって、
すぐに全部変える必要はないです。
まず、認めることです。
「私はこれを我慢していた。」
その事実を、静かに自分に認めること。
責める必要はないです。
後悔する必要もないです。
ただ、「当たり前」という
名前をつけて見えなくしていたものを、
もう一度「我慢」として正しく見ること。
それだけで、内側の何かが動き始めます。
そしてその次に、
こう問いかけてみてください。
「この我慢は、命に誠実でしょうか。」
「この我慢を続けることで、
私は自分らしく生きられていますか。」
その問いの答えが、次の一歩を教えてくれます。
我慢に気づくことは弱さではない。
それはむしろ、
自分の本音にようやく正直になれた瞬間です。
「当たり前」の中に隠れた
我慢に気づいた日が、
自己一致への扉が開く日です。
あなたの「当たり前」の中に、
本当は我慢していることはありませんか?