もぐらで~す。(^_^)/
このブログに訪問してくれて、
いろいろな形で応援してくれるみなさん、
さらに、愛の告白を何度もしてくれるみなさん、
愛の形も深さも変わりながら、
いつも、とても、とても、たくさんのどうもありがとう。(^_^)/
今日は彼岸の明けです。
近頃はお盆や春・秋の彼岸などは余り大きな行事ではなくなった印象がありますが、
もぐらはもぐら家の長男・墓守なので、回忌法要やこれらの行事は忘れたことは
ありません。
今週は春の彼岸でありますし、そんな時期に多少縁のある記事も良いかと思って、
書くことにします。
本題の前に、今週読んだ本に触れます。
南杏子 著 「サイレント・ブレス 看取りのカルテ」
この本は現役医師である同人の著作です。
人間が亡くなる際の呼吸を「LAST BREATH」、
息を引取ることを「TAKE A LAST BREATH」と言いますが、
人がこの世を去るまでの時間(人生)は死に向かっていくまでの時間であり、
結果が死(END)と考えるのか?、
或いは死(END)を基本として、最期の迎え様を考えた上で、逆に現在に遡り、
現在を形づけるのか?
このふたつはとても大きな違いがあると思います。
人は基本的に自分だけは死なないと思っているのが実際で、これはやはり病に罹ったり
病と戦っている人でないと死を実際に意識することはないと思います。
健康な人は自分は明日死ぬかもな、とはまず考えません。
病と闘っている人は実感があるでしょうが、10分後に急変して死ぬかもとは、なかなか
思いません。
でも、それで良いという気もします。
個人の問題なのだという事実を超えることは無いと思います。
さて、いつもながらの冗長な前書きになりましたが、
それこそ3月20日(彼岸の中日)の未明のこと、寝ているもぐらの右手を2回、
軽く叩かれました。
目を開けても誰もいない。
時計を見ました。
午前4:40ぴったりでした。
この時間は亡き父の死亡時間です。
ああ、来てくれたんだねって、思いました。
17年前に亡くなった父はしばしば午前4:40に来ることがあります。
もぐらとしては、こういうこともあるんだな~って受け止めています。
なんかいいですよね、こう言うの!合図だけして!(^_^)/
もぐら専用の通院車(軽自動車)には、黒山三滝と言うところで買った、
仏壇のお鈴の音色にも匹敵する鈴が吊り下げてあるのですが、普段はなりません。
でも、17歳で死んだもぐら家のシュガーが来るときはその鈴が鳴り、シュガーの
匂いがします。シュガーは気まぐれに来るので、いつも突然です。
当然、運転中ですが、あっ、来たんだねって、ちょっと声をかけます。
この記事を読んでくれた人は一体何が書きたかったんだって、思うかもしれません。
あえて言えば、「そういうようなもの」ですと。
もぐらの文章は序破急や起承転結に乗っ取ったものではありませんから、
「そういうようなもの」なんです。(^o^)
それぞれのみなさんの自由な印象で良いと思っています。(*^_^*)
亡くなった人々やシュガーも、とどのつまり、もぐらのこころの中のことなんだな~
!(^_^)/🧡🧡🧡
今日の曲、悩むなぁ~
2曲にします
コーラスが素晴らしい1曲
そして、何故か希望を抱ける1曲
こういう歌を聴いていると体も喜ぶ気がするんだよね!(^_^)/🧡