アブラハムと7人の子とイシュマエル 。
どーもー。ここ最近カバラを勉強しようと思っていろいろ調べていたのです。発見もありつつ、なるほどなるほど、と納得していたのですが、それよりも。
昨日ついに長年気になっていた謎がとけた。「アブラハムは7人の子」という曲を知っているかい?わたしは小学生の頃少しだけ通っていた英会話教室でこれを英語で歌っていたのだけれど、大人になっても妙に心に残っていたこの歌。
アブラム、または アブラハム 、アブラハームはヘブライ語で多数の父という意味。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。「信仰の父」とも呼ばれる。
wikipedia(アブラハム)
アブラハムとはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖。アダムとイブの直系子孫になる。アブラハムには多くの子供がいた。それが曲のタイトルにもある「7人の子」。この7人の内訳とは。アブラハム人類救済の出発点からの流れを軽くまとめながら。
アブラムは父テラの死後、神から啓示を受け、それに従って、妻サライ、甥ロト、およびハランで加えた人々とともに約束の地カナン(現在のパレスチナ)へ旅立った。
アブラム一行がカナンの地に入ると、シェケム(エルサレムの北方約50km)で神がアブラムの前に現れ、
あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。
— 『創世記』12:7、日本聖書刊行会の新改訳聖書より
アブラハムにはサライという妻がいた。そして神から、子孫が増えるような啓示を受ける。
アブラムとロトとが分かれた後、アブラムに神から以下のような預言が下された。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。
— 『創世記』14:14-17、日本聖書刊行会の新改訳聖書より
さらには、東西南北見渡す限りの地を永久にアブラハムと子孫に与えるとの預言。アブラハムと子たちは地球の支配者になるということを約束してくれた神。それなのに、なかなか子供に恵まれなかったアブラハム。
彼は老齢になっても嫡子に恵まれなかった(ハランを出発したときは75歳)が、神の言葉
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」
— 創世記15:5、新共同訳聖書より
と言われ、その後妻のサライの勧めで彼女の奴隷であったハガルを妾にして76歳にしてイシュマエルを授かり、後に99歳で割礼を受け、老妻サラ(サライ)との間に100歳になって嫡子イサク(イツハク)を授かった(創世記 第16‐18・21章)。これ以外にアブラハムの子として記されているものとして、アブラム137歳の時に妻サラは127年の生涯を閉じたが、その後アブラハムはケトラという女性を妻に娶りジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアという子供をもうけ、その後アブラハムはイサク以外の子には生前分与として贈り物を与えて東の地に去らせ、イサクには残りの全財産を継がせたほか自分の故郷から傍系親族のリベカを連れてこさせて彼の妻にさせた。アブラハムは175歳で世を去り、マクペラの洞窟へイシュマエルとイサクによって葬られた。
この箇所に「アブラハムと7人の子」が出てくるので、まとめる。
老齢で子に恵まれなかったので、若いハガルという妾に子を産んでもらった。それが長男になる「イシュマエル」である。その後なんと100歳で正妻サライとの子、後継になる「イサク」を産む。
そして妻サライが亡くなった後にケトラと言う妻を娶り「6人の子」を産む。ということで、アブラハムの子供は「8人の子」になる。歌とは違う。いったい何故。
長男「イシュマエル」は妾の子であり、妊娠中サライと喧嘩みたいになる。女同士のいがみ合いは昔から絶えないのだ。
それで困ったアブラハムは神から『妻サライの言う通りにしても大丈夫だよ』と言われたので、サライの望み通り、イシュマエルとハガルを荒野に追放したのである!かわいそう。
ということで、おそらく「アブラハムと7人の子」は追放された「イシュマエル」が抜かされている。
ユダヤ教は、悔いてはいるが通常イシュマエルのことをよこしまな人物として見ていた。新約聖書では、イシュマエルへの言及をほとんど含んでいない。イシュマエルは、例えば律法としてのユダヤ教の象徴とされてきたが、現在イサクと比肩してみなす伝統は拒絶されているように、キリスト教の新しい伝統の象徴である。
この引用のように「イシュマエル」はユダヤ教とキリスト教では重要視されていない。けれどイスラム教では全てのアラブ人の先祖として「イシュマエル」が重要視されているらしい。
イスラームでは、イシュマエルに対しての非常に肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシュマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る(考えがのちに普及したある初期の神学者によると)。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシュマエル母子を追体験するものとされている。
この「イシュマエル」の扱いの違いが非常に面白い。アブラハム正式な後継である次男「イサク」を重視するユダヤ教とキリスト教。追放された長男「イシュマエル」を重視するイスラム教。
わたしはこの違いに「現実世界」と「精神世界」を見たのだ。というか、わたしの神話の読み方は、物語の中に「現実世界と精神世界」が混ざり合っていることを認識し、それを区別するのが常。
つまり「イサク=精神世界」「イシュマエル=現実世界」と見た。イサクの物語はあくまでも心の中の物語であり、イシュマエルの物語は現実世界の話。現実を生きているわたしたちは「イシュマエル(肉体)」そのものであり、心の中に「イサク(魂)」が存在していると考えること。
わたしがこのことに気がついたのはユダヤ教で使用される「メノラー」のことを考えていた時。
ユダヤ教の典礼具の一つである多枝燭台。その原型は,神の命令によって幕屋(まくや)の聖所に置かれることになった純金の七枝の燭台である(《出エジプト記》25:31~35)。中央の幹の両側に三つずつ枝が伸びた形で,七つの燭火がともせるようになっていた。この形はエルサレムの〈第二神殿〉の聖所に置かれた燭台にひきつがれ,神との出会いの場所としての神殿の象徴ともなった。
メノラーとは(コトバンク)
ユダヤ教の象徴としても有名な燭台。ひとつの柱の左右からそれぞれ3つの枝が出る形7つのろうそく受けを持つメノラー。真ん中の柱は一番高い。ここで例の歌が思い浮かんだ。
「アブラハムと7人の子」の童謡の中で「1人はノッポで後はチビ」という歌の内容からは、ノッポがイサクでその後生まれた6人がチビというのがわかる。
メノラーはアブラハムの「7人の子」をも象徴しているのだと気がついた。ノッポのイサクは木の幹だろう。メノラーの形はカバラのセフィロトをも表現しているように見えるから「生命の樹」とも言われる。
そして、ハヌキヤという9つのろうそく受けを持つものも存在している。こちらも中心が柱で、左右からそれぞれ4つの枝が出ている形。ハヌキヤはハヌカというユダヤ教の行事で使用されるものである。
ハヌカーとはユダヤ教の年中行事の一つで、マカバイ戦争(紀元前168年 - 紀元前141年)時のエルサレム神殿の奪回を記念する。
7のメノラーと9のハヌキヤの存在。わたしが見出したことはメノラーが「イサクという中心と6人の兄弟」、ハヌキヤが「イシュマエルという中心と7人の兄弟」なのではないかと。
ここからは、メノラーとハヌキヤ、燭台が二種類あることの意味について考えてみる。
メノラーはイサクが中心にある。さらには「創世記」でのイサクの物語は精神世界(心の中)と見る。そう思えるのも、イサクの燔祭(イサクのはんさい)という出来事があったから。
イサクの燔祭(イサクのはんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというものであった。この試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられている。
アブラハムに訪れた大きな試練。大切な息子を、生贄として焼き尽くすように神から命令されるのだ。けれど彼には信仰心があったから、神に従った。普通ではありえない行動だが。
神が燔祭を命じた動機については、伝統的に三つの解釈が支持されている。
・アブラハムの信仰心を試すため。またそれは、このような事態に陥っても動じなかった彼の偉大な精神を公にするためでもあった。
・燔祭の場所として指示されたモリヤの山が神聖な地であることを示すため。ユダヤ教の伝承によれば、この出来事は現在、神殿の丘と呼ばれている場所で起きたとされている。
・イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため。この習慣はカナン地方ではモレク崇拝やバアル崇拝などで一般的に行われていたという。
この3つの解釈を読めば、やはりイサクが「精神世界」の象徴であることがわかる。イサクはアブラハムの「心」なのである。それを物語では「実の息子」として描いている。
偉大な精神(つよい心を持つ事)、この試練を乗り越えた場所に神殿の丘ができる(新しい心の構築)、人身御供の習慣を断つ(死を肯定)。これらは「心」における試練を乗り越えた際に起きることの順番でもある。ここでは詳しくは語らないけれど、UOZAブログに度々書いていることなので、気になる方はお読みください。
ハヌキヤはマカバイ戦争の勝利を祝うための行事で使われる燭台である。
マカバイ戦争はユダヤ人弾圧に端を発し、最終的にユダヤ人王国が成立したことからユダヤ人の独立戦争という位置づけが良くなされる。しかし、その発端や経過において、ヘレニズム的なユダヤ人と敬虔派のユダヤ人の対立がしばしば見られるように、一面ではユダヤ人の内乱としての側面も持っており、また証拠が少ないながらヘレニズムの潮流の中で「ポリス的」な変化を遂げるエルサレム社会の中で、市民としての権利を獲得できなかった下層民と、強くヘレニズムの影響を受けた祭司や貴族達との対立という要素があったとも指摘されている。
こうした各種の指摘に見られるように、マカバイ戦争を単純にユダヤ人の独立戦争と見る意見は過去のものとなりつつある。ただし、この戦争の帰結としてハスモン朝が成立したことも事実であり、その意味においてユダヤ人の独立戦争という見解が間違いであるということもできない。史料が限られていることもあり、マカバイ戦争の詳細についてはなお詳細な研究が待たれる分野である。
このように、マカバイ戦争については諸説あるようだけれども、ユダヤ人にとって『ひとつの勝利を勝ち取った』記録である。
ハヌキヤはイシュマエルが中心にある。イシュマエルは追放された妾の子である。彼は『兄弟すべてに敵対して暮らす』と神に預言されている。わたしはこの預言から、イシュマエルの物語を現実世界と見た。
息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けていた(創世記. 16:12)。
兄弟すべてに敵対して暮らす、という表現はまさに「現実を生きるわたしたち」のことを表しているように思える。人間とは神から堕落し、神に見捨てられた(と思い込んでいる)存在である。
生きることに苦しみを感じたり、必ず訪れる死を悲しむこと。それを続けた人間はいつか現実を憎むことになる。だからこそ私たちは争い(戦争)を起こしてしまう。それが『すべてに敵対して暮らす』という状態。
物語の中でイシュマエルは「現実的な息子」として描かれている。長男であること・妾の子であること・が、その根拠にもなるのであるけれど、長くなりそうなので割愛する。
イスラム教には「イード・アル=アドハー」という犠牲祭がある。それはアブラハムが神に息子を生贄として捧げた時のことを祝うものである。少し前に説明したイサクの燔祭のこと。
『クルアーン』ではイブラーヒーム(アブラハム)は息子を犠牲に捧げようとしたとされているが、それがイスハーク(イサク)の方か、イスマーイール(イシュマエル)の方かは明確に示されていない。キリスト教やシーア派ではイサクを犠牲にしようとしたとされるが、スンナ派の大多数ではイスマーイールの方を犠牲にしようとしたとされている。
イスラム教では、アブラハムが息子を捧げたというだけで、それがイサクなのかイシュマエルなのかがはっきりしていない。しかも、イスラム教徒の8〜9割を占めるスンニ派は、イシュマエルが犠牲になったと解釈しているようだ。
わたしは、イサクを『心の中の物語』と見て、イシュマエルを『現実の物語』として見ている。イサクとイシュマエルは「人間の二つの側面」を表しているから、犠牲はどちらにも起きるはず。
イサクを犠牲にした時に起きたこと(強い心で、新しい心を構築し、死を肯定すること)をお手本にして、イサクの時と同じ様にイシュマエルを犠牲にする必要がある。私たちも神を信じ、自分自身を犠牲にするべきなのだ。
知恵の実を食べたアダムとイブが楽園から追放され、その子孫が私たちである。同じくイシュマエルも父(神)から追放されている。イシュマエルは神から離れてしまった存在。父がおらず、母だけという状態は太陽が欠けている。
ハヌキヤの中心にある柱は「シャマシュ」と呼ばれており、その言葉は「太陽神」を表すとも考えられていたりする。
ハヌキヤはハヌカーという「8日間の祭り」で使われる。中心の「シャマシュ (イシュマエル )」は種火として使用され、1日目にその種火と一番右(か左?)のろうそくに火を灯す。そして、次の日も同じく種火を使い隣のろうそくをともし、最終的に全てのろうそくが点灯する。
イシュマエルこそが全ての灯りをともす中心。イシュマエルは現実世界を生きるわたしたちそのもの。わたしたち人間こそが全ての灯りをともすべき存在で、そのために自分自身の犠牲が必要になる。
イサクの燔祭の物語は、論理的な解釈を通じてキリスト教の主要なモチーフに影響を与えている。それは、イエスがイサクと同様、神に捧げられる至上の犠牲として描写されているからである。
十字架上の死という受難も、祭壇の上で縛られたイサクのそれと形式上の類似性が認められる。
引用のようにイエス・キリストも、イサクと同じように神に捧げられた存在と言える。わたしはUOZAブログでイエスの死を「心の死」であると紐解いている。アブラハムが息子を犠牲にしたことも「心の死」を表す。つまり肉体の死ではなく「心の犠牲」なのである。
全てのアラブ人の子孫が「イシュマエル」と言われている。イスラム過激派のwikipedを引用したい。
イスラーム過激派では、唯一神(アッラーフ)の性質である「神の単一性」(タウヒード)が、「イスラム信仰者の共同体(ウンマ)の単一性」として解釈されている[8]。前提として、どんな人間でも「神の単一性」の共同体に加わろうとすることは可能だが、こうした考えや信仰からすると、共同体の外側は全て「敵」ということになる。
共同体の外側は全て「敵」。イシュマエルに向けられた『兄弟すべてに敵対して暮らす』という預言が成就しているからこそ、イスラム過激派が存在しているのだろう。イスラム過激派はほぼスンニ派であり、イシュマエルの犠牲を信じているのではないだろうか。
『兄弟すべてに敵対して暮らす』という状態が長く続いたとき、戦争やテロが起きる。その状態を乗り越えるためには「強い心」が必要になる。『あること』を認めると、全ての灯りに光がともる。弱い心では認めることができないこと。
『自分という存在が一番の悪である(心の犠牲)』と認めること。イサクとイシュマエルは魂と肉体という対比でもあり、善と悪という対比でもある。人間は魂(善)と悪(肉体)を両方そなえていて、悪の側面(イシュマエルであること)を認めることで完成が起こる。
最後に、メノラーとハヌキヤの違いについての答えを出しておきたい。
一週間は7日間である。神は世界を7日間で完成させた。つまり完成がメノラー(イサク)である。けれど、ハヌカーで8日間火をともし続けること。8日目は一週間の新たな始まりとも言える。ハヌキヤの種火(悪)は7日間最初の1日目であり、次の7日間の1日目である。
わたしはこの儀式に最初と最後の繋がりを見た。ハヌキヤは新しい完成であり、『繰り返される完成(イシュマエル)』なのである。新しい始まり(神殿)を作るのは、やはりイシュマエルという私たちなのだ。
最近長野で起きた事件について触れておきたい。犯人の彼はおそらく『兄弟すべてに敵対して暮らす』状態だった。わたしには彼の気持ちがわかる。その状態は、とても乗り越えられるとは思えない地獄のような苦しみ。
彼と同じように『強い孤独感』を感じたことがある人はいるのだろうか?『兄弟すべてに敵対して暮らす』状態を経験した人だけが、完成を迎える。けれどそれは心の中だけに留めておくこと。それができないから、自分を守る為に、他人(兄弟)を殺す。『自分は悪くない』という頑固な心が敵対心を作る。
『精神の極限状態』を乗り越える術を知ること。テロリストと呼ばれる人たちの心の中を体験したら、この世界は平和になるのに、まだ誰もそれをしていない。現実で戦争が続くのはその為である。
そろそろ私たちは『自分という存在が悪であること』に気がついた方がいい。外側の悪に意識を向けることをやめて、自分自身が悪であることに意識を向けよう。『兄弟すべてに敵対して暮らす(強い孤独)』状態を経験してほしい。地獄のような苦しみではあるが、神を信じているのならば、必ず完成が起きる。わたしが責任を持って保証する。神を信じてない人はしらん。