ご質問を頂いたので、お答えします
人に親切にして、裏目に出るっていうのはどうしてですか?
母に整体の本を貸して、そこに書いてあるストレッチをして、かえって痛くなったと言われました。
私は、本に色々書いてあるのを良くなるかなと思って貸したんです。
それと、ある人に「じゃあ、こうしましょう。」と言ったら、喜んでくれたんですが、別の人は気に入らなかったらしく、私は怒られてしまいました。
いいと思ってやったことが、良くなかったのは何でだろうと思います。
その人のことを考えてるのに、別では怒られるって何でかなと思います。
もし、良かったら、ブログで教えて欲しいです🙇
Kさん、ご質問ありがとうございます
人に親切にして怒られるって、出した愛が傷つけられたようで悲しくなりますよね
私はKさんの優しさをよくわかっていますよ
ここで気づけることは、
お母さんも、気に入らなくて怒ってきた人も、
「反発したい」が先に出ててKさんの気持ちを汲めないというのが共通しているかなと思います。
反発したいというのは、支配されることに抵抗している状態で、人のいう事を聞きたくない、指示されたくない、コントロールされたくないなどの反発心が強く、天邪鬼な面が出ているのだと思います。
そんな方は、人に対して認めることや感謝することで自分の価値が下がる気がしているので、Kさんの親切を受け取れず否定する形になってしまいます。
どうしてこのような事が起きているかというと
Kさんの中にある、「認められたい」欲求と、「人を認めたくない」相手側の反応が共鳴しているからです。
もしかしたらKさんは、「人に喜ばれることができた自分」を感じると自己価値や自尊心が満たされて高揚感や優越感を感じるのかもしれません。
天邪鬼タイプの人は劣等感が強く、誰かが優越感を感じていると、自分の劣等感が刺激されるので、人が喜んでいる姿を見るのが苦手だったりします。
なので、優越感を感じさせないような対応を取ります。
Kさんは、「人に喜ばれる」ことで自分で自分を認めようとしていたのかもしれません。
「人に喜ばれること」はとても素晴らしい事なのですが、ツイン道に入った方々はハイレベルな課題に向き合わされますので笑、
無条件の愛に進まなくてはならないのです。
愛されたい欲求から無意識に、「人に喜ばれる自分ならば愛される」という価値観を作り出していて、
本当はどんな自分でも、どんなダメな部分があっても、例え人に喜ばれる事ができなくても、
そもそも私たちは神様に愛されているからこうやって生きているのだという事に気が付けなくなるのですね。
私たちは無条件に愛されているから生きていられるのです
(どんな人でもみんな平等に空気吸えてるでしょ?)
人と反応を起こさないようにするには、自分のエネルギーの中に他人を入れ込まないこと。
それは、人と比較する事をやめることです。
Kさんの中に、他人と比較する癖が残っているのかもしれません。
人は皆それぞれ、価値のある存在として神様に認められているので、そこに順番や優劣をつけていません。
神様でもしないことを私たちがやるのは、おこがましいです笑
誰かや何かと比較しなくても、Kさんはこの世でたった一人しかいない、かけがえのない存在です。
それはみんなにも言えることです。
人に喜ばれることで価値を見出そうとすると、人に喜ばれてる人がライバルになるので、そういう人が近くにいるとネガティブな気持ちを持ちやすいです。
そもそも人が喜ぶかどうかは、その人の受け取り方次第なので、喜ばれることを目指すのではなく
「誰かの波動が少しでも上がるような取り組み」を心がけると良いかなと思います。
それは、笑顔で接するとか、良いところを見つけて伝えるとか、人が明るくなるような行動です。
一緒にいて明るくなれる人とは、一緒にいたいと思えるものですよね
役に立つことより、寄り添ってあげる、気持ちを理解してあげる、受け入れてあげる、それができるようになるには、まずは自分自身に無条件の愛のシャワーをかけてあげることです。
お母さんは、痛みを治したいというより、Kさんに労って欲しかったのかもしれません。
根底にあるのは「大切にされたい」という想い。
本を借りることより、優しい気持ちをかけて欲しかったのかもしれませんね
痛みには愛のエネルギーが1番のお薬です