小中高思い出話とその他 | はにょのブログ

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小中高思い出話とその他

◇多趣味の話
「多趣味ですね」と良く言われる。
私は志望校も部活で選んだり、やりたいことで選んできた。
ずっと夢に向かっていた。
とりあえず大学に入ったとか、やりたいことないとか、休みの日やることが無いんだと言う人がいる。
その人に向かってどうこうないんだけど、趣味がないひとと仲良くなれないというか、趣味が無いと言われて、「そうなんですね」で話が終わる。

そこで、自分の思い出話を少々。

■幼稚園
遡ること3歳ごろ、幼稚園を決めるときのことを覚えている。
2択でどっちに行きたい?と母に聞かれ、近い方と答えて決めた。

■小学校
1年生の時は、隣の人と手をつないで歩きましょうというルールだった。
私の隣の人は女の子だったのだが、握ってくる手が異常に強くて痛かった。
1年生の時、当時は「いじめ」という言葉を知らなかったが、今思えばいじめだったのだろう。
握る手が強いくらいならただ握る力が強いだけなのだが、睨んでくるし、すれ違うとわざとぶつかってきた。
怖かったが、「いじめ」という言葉の意味も、正体も知らない私はただただ恐怖に耐えていた。

その子と手をつなぐのは嫌だったが涙目を浮かべながら耐え続けた、その時は誰にも相談できなかった。
というか、相談するという行為すら知らなかった。


うわばきから金属音が鳴っていても何の音かわからず、画鋲が刺さっていることに気づけなくてずっと足の裏が痛かったり、
「寒気」という言葉を知らなくて、寒いのに熱が出ていることに気づけなかったり、
受ける現象に対しての対処法が分からなくて、そういうのは人から教えてもらうことはなくて、文字通り身体で学んだ。

■マーチング
4年生からマーチングバンドに入った。
音楽が好きだったから。

入る前に、小中合同で演奏を見せてもらったことがあり、その時にフルートを見て、この楽器がやりたい!!!と思って入ったのに、まさかフルートがなく、ショックを受けた。
先生にも誰にもフルートが良かったと言ったことはない。
当時から胸の内に秘めることが好きだったようだ。


マーチングでは友達がいなくて、話し相手もいないし、練習も辛かった。
特に休みの日にポツンと一日中いるのはただただしんどかった。

さらに今まで体力的に辛いことは遠足で足が猛烈に痛かったくらいで他は経験してこなかったので、寒い冬に素手で金管楽器を持ち続けたり、重い楽器が地面と水平になるように維持するのが辛かった。


■中学校
中学校はやっと念願のフルートが出来ると、吹奏楽部が強い所に行きたいと言って、決めた。

仮入部の2週間で全種類の楽器を吹いた、楽しかった。
マーチングで金管楽器は経験していたので、マウスピース楽器はすべて音が出るし、
リード楽器は基本的に音を出すだけなら難しくないので、未知の楽器を教えて吹かせてもらえる楽しい楽しい夢の時間だった。

フルートは複数人志願者がいて、人数があぶれるのでオーディションを行った。
運だが、小学生からの念願がかなうことができた、やったね!!

吹奏楽部はその学校では宗教と言われていて「はい」「すみません」「先輩代わります」の3語しか話してはならないと言う謎のルールがあった。

大変無駄なのだが、練習の30分前に音楽室前の廊下にただ両手を前で握り、両足をくっつけ、ただただビジネスの立ち姿勢を維持し続けた。
当然無言だ、精神を鍛える修業だった。

その後、パート練習の教室を本日2度目の10分以上に渡る掃除し、(授業終了後各クラス掃除をしているのに)練習に入る。

ちなみに、練習終了後も各クラスの戸締りを終えるまで廊下を掃除し続け、終わりのミーティングに呼ばれると掃除用具を片付け、また立ち姿勢を維持。

その部活のせいで、「すみません」という口癖がついてしまった。
友人に、「すみません」より「ありがとう」といいなと言ってくれることが無ければ、すみませんおばさんになっていただろう。

そんな、我が吹奏楽部は、別名「掃除部」と呼ばれていた――。


パーカッションの楽器を運ぶのがとにかく大変で、ティンパニが死ぬほど重かった。
今までは、「背が伸びなくなるから重いものは持っちゃだめよ」と母に言われていたこともあり、避けていたのも要因だろう。
精神、体力共に成長したと思われる中学時代だった。


■secretary セクレタリー
セクレタリーという別名お茶係をやらされた。
一番仕事が無い、とってつけたような係りだった。

講師の先生をお迎えし、お茶を出すのだ。
なんて謎な係りだったのだろう。
必要だよ?必要だけども、本音はもっと重要な他のことをしたかった。


引退式、誰もが「やめたいと思った」と述べたが私はやめたいと思ったことはなかった。
全員が泣いたが、私は泣けなかった。
どんな卒業式でも泣いたことはない、今でも感動でなかなか泣けないのだ。
泣けることがうらやましい、皆の輪に混ざりたいと今でも思っている。
ちなみに感動系で初めて泣いたのは、ジラーチ。

■疑問
とある人に、泣けないのは、泣くくらい心が動いたことが無いからだ、本当の地獄も天国も味わったことがないからだと言われたが、そうなのですか?

部活を引退し、お年玉10年分(1年1万もらっていました)でmyノートパソコンを購入し、部活という打ち込むものを失った私はどっぷりパソコンに浸かい、今のこういうネット活動をしている私に結びついている。


■人間関係
同じパートの同期は女性だったのだが、男子トイレやベランダに篭っちゃったりと、異常な人で、サポートが大変だったなぁ。
その人は頭がよく、運動以外オール5だった。
持論なのだが、勉強が出来るならコミュニケーション苦手だとか、仕事ができないけど話しやすいとか、完璧な人はいないと思うのだが、そういう持論を持つキッカケはこの人からかもしれない。

小中では友達の取り合いしていた。
人間関係は小中高どろどろだった。
今振り返ると、友達友達言ってたけどただのクラスメイトで部活メイトだんだな。
電話番号は変わっていないけどそれぞれの学校を卒業したらそれっきりで今現在でも連絡を取っている人はだれ一人いない。

もう戻らない、友達を大切にせよという心得。
やりなおしたいとかよく聞くけど、やりなおしても変わらんし、やりなおせるわけないから「やり直したい」「あの当時に戻りたい」と愚痴る理由が分からない。


■高校
高校も吹奏楽部で決めた。
前髪が無かったのだが、前髪を作った。
中学から同じ先輩は、「よく笑うようになったね」とか「前髪作ったんだね」と言われ、「高校デビューだね」と言われても実感はわかなかったし、そのつもりもなかったのだが、私はいわゆる高校デビューをした類らしい。

謎にあだ名制で全員あだ名で呼び合う部活だった。
役職は重要なものでスケジュール管理が必要だった。
私のメモ魔はこの時期からだと思われる。

クーラーないとか、指揮がゆっらゆらで分かりづらいとか、パートの同期や後輩が部活やめちゃったりとか、いろいろあった。

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また思い出したりなんかしたら追加します。


20190504 はにょ