映画「魔女の宅急便」の再放送がありましたね。
私は今回は見ていないのですが、
TwitterのTLには、
魔女宅の話題が山程流れていたので、
いまだ人気衰えずというのを実感しました。


今朝もまだ、
魔女宅の話題が流れているTLを
眺めているうちに、
ふと映画のワンシーンが頭に浮かびました。
その時ツイートしたことを再録しながら
書いてみたいと思います。

以下青文字はすべて
‏@hanuru_ からの再録です。




あの「あたしあのパイ嫌いなのよね」の女の子、
初めて魔女宅を見た時は、
ズキっとくるシーンだったんだけど、
だんだん視点が変わってきて、今では逆に
「そうだよね。要らないって予めちゃんと伝えたのにねぇ」
と思うようになった。 




魔女の宅急便の中では、主人公キキが、
老婦人から孫娘宛に
手作りのニシンのパイを届ける仕事を請け負い、
雨の中必死で届けたところ、
当の孫娘には「私このパイ嫌いなのよね」と
そっけない態度で受け取りをされ、
ショックを受けて帰るという
印象的なシーンが出てきます。


かつてこの映画を視聴する度に、
孫の為に一生懸命手作りをした
おばあさんの事を思うと、
孫娘の態度がアニメとはいえ、
嫌な感じがしたものでした。
そしてこの後風邪を引いて寝込んだキキの
むくわれない心の痛みを思って、
可哀想に思ったものでした。
あんなに努力をしたのに
喜ばない孫娘はなんと意地悪で
心が冷たい都会のスレッカラシなのかと。

子供向けのアニメですし、
山だし風なキキ=純真 
都会風の孫娘=パーティガール
のようなステレオタイプの
対比で描かれていると単純に思っていたのです。



ところが、月日が経ち。


今思ってみれば、
ステレオタイプの対比は
物語り上は確かにそうだったのかもしれないのですけど
(マンガやアニメだけでなく、日本のドラマなどには
そういった”作られた典型”が多いので)
視聴する私自身の視点も、
ただキキサイドに感情移入していただけだったんですよね。


あの孫娘の視点で考えてみれば、
祖母に予め「要らない」と
はっきり伝えていて、
それにも関わらず押し付けられた状態で。
好きじゃないのにわざわざ手作りで渡されて、
食べるにも食べにくいし、
捨てるにも捨て難いし、
逆の立場になってみると、
ほんと迷惑な話なわけです(苦笑)


こういうことって、
実は現実生活でも結構ありますよね。


こちらにはこちらのペースがあるのに、
「一人暮らしだと
体に良いもの食べてないんじゃない?」とか、
「共働きだとお料理大変でしょ?」などといって
勝手に料理を作って大量に持ってこられたら、
しかもそれがまったく好きじゃないものだったら、
やっぱりちょっと困りますよね。
やんわりと断っても、相手が全然気づいてくれなくて、
善意善意で来られるものだから、
それを断るこちらがわに
なんとなく罪悪感が生まれたりして。


お料理じゃなくても、
勝手に机を掃除されたり、
不要な気遣いで行きたくもない集まりに
誘われて断れない状態になったり。



嫌で断っているのに、
相手は遠慮してると思い込んで
わかってくれなかったりして。





そして逆に喜んで受け取る筈と思い込んで
勝手に傷つくキキを見て、
こういう経験をして初めて
人は画一的じゃないと学んでいくんだなーと。
だから子供は社会に出さなきゃいけないんだなと
思うようになった。
あの女の子はそういう視点でみれば天使なんだな。




キキが孫娘の態度で酷くガッカリしたのは、
「喜んでくれる筈と、
無意識に思い込んでいたからなのでしょう。


でも、その善意は、
受け取る側にとっては
全然善意じゃない可能性もあるわけです。
この孫娘の場合は逆に迷惑だったのですね。


さきほども書いたのですが、
私達は「良かれ」と思ってやったこと
・・・つまり善意はいつも
「喜ばれる筈」と
無邪気に無神経に思い込んでいるフシがあります。


でも、少し考えてみれば、
私達はひとりひとり違う人間で。
誰かにとって良いものが、
他の誰かも良いというわけではないんですよね。


辛い物が大好きな人が
辛いものがまったく食べられない人に
自分が美味しいと思うからと
激辛物ばかり渡してきたら、
食べられない人には苦痛でしかないわけで。


食べ物に限らず、
これはどんな事でも当てはまることですよね。

※関連記事天国はあるのでしょうか?




キキは傷つくことによって、
初めて「世界には自分以外の人がいる」ということを
リアルに体験したのでしょう。

いつも自分と同じ感性で、
同じものを良いと思い、
嫌なものは排除する、
そんな人とだけで
世界はできていないのですから。


相反するものがからみ合って、
ぶつかり合って、
新しいエネルギーを生み出していく、
それがこの世界だと思うのです。


キキはこの経験によって、
次のステップへと成長する
扉を開いたのだと思います。
つまり子供時代の幕引きと
社会生活という少女時代の始まりです。
それで風邪を引いたり、
箒に乗れなくなったりの表現が
この後に続くわけです。


そういった風にかんがえていくと、
あの意地悪な孫娘は、
まさにキキの前に現れた
御使いであると思えるのですね。
本人がその自覚はまったくなくとも。
実際には描かれなかった孫娘の心を
勝手に想像すれば、
きっとこの経験前後に、
彼女自身も変化の種が生まれていることでしょう。


物事が起こるという時は、
単に個人だけで起こるのではなく、
人間というドミノのコマが並べ終わったタイミングで
初めてカタカタと動き出すもの。
このようなことは、
私達の現実でも
実際に起こることです。



「おちこんだりもしたけれど
私はげんきです」




今日は獅子座の満月です。
太陽は水瓶にいます。


私達は、みな、仲間だけれど、
人はひとりづつ違うのだ、
感性も感覚も考え方も違うのだということを
きちんと受け入れることが大切です。


ーーー自分の成長を恐れないことは
孤独であることを恐れないこと



違いを受け入れることは、
相手を尊重することに繋がります。
相手の感性、意見、そういったものも、
自分と同じようにこの世界を構成するものなのだと
気づいていけるのではないでしょうか。


そうやって、ひとりひとりが
自分の足で立ち上がっている姿を
天から見下ろしてみると、
初めて「大きな集団」として
そこにある自分というものが見えてくるでしょう。




ベランダ立って胸を張れ!
 --by 岡村靖幸


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