「世界の為に最善を尽くしても、
その見返りに酷い仕打ちをうけるかもしれない。」
えっ? 何それ!?
「良いことをしたら
良い事が帰ってくる」んじゃないの?
そう思った方も多い筈。
因果応報という言葉がありますね。
私達は、いつも、
「良い事をしたら良い事が、
悪いことをしたら悪い事が返ってくる」ものだと
なんとなく思っています。
世の中の色んな本でも、
「愛して欲しければ、まずあなたが愛しなさい。
他人に受け入れられたければ、
あなたが先に受け入れなさい」とあるのは、
つまりは因果応報を語っています。
スピ系では「カルマの法則」なんていう人もいますね。
昔から知られた考え方のひとつです。
にも関わらず。
「世界の為に最善を尽くしても、
その見返りに酷い仕打ちをうけるかもしれない。」
とはどういうことなのでしょうか。
実際のところ、世の中は複雑です。
毎日10時間勉強しても
希望の学校に合格出来ない人もいれば
死ぬほど好きな人に必死にアピールしても
失恋してしまう人もいます。
精一杯会社で頑張っても、
隣の席のひとばかりが褒められたり、
出世をして行ったり・・・。
一生懸命頑張る人が
その分だけ報われるかというと
そういうわけでもないという現実を
普段私達は身近に体験してきています。
しかし、更に酷い事になることもあります。
心ない嘘や不正、犯罪、そういったものに対して
NO!と正義を貫いた結果、
本当は下心があるから正義ぶってるのだと
友人を失ってしまったり、
言われもない言葉をぶつけられたり、
時にはすべてを仕組んだのはあの人なのだと
事実を知らない人から非難されたり。
仕事を失ってしまうこともあります。
あの有名なルーサーキング牧師でさえ、
「邪悪な野獣」と呼ばれたのです。
あなたが最善を尽くしても
その後で何が起こるかを判断するのは困難です。
感謝され、人々に支持されるかもしれません。
しかし最善を尽くした結果、人の羨望を買い、
敵を作ることになるかもしれません。
自分を利する不純な動機があるのではないかと
責められるかもしれません。
偽善の友達と本物の敵を
作ることになるかもしれません。
(中略)
何年もかけて築いたものが破壊されるのを
目撃することになるかもしれません。
あなたが助けている人々によって
攻撃されるかもしれません。
最善を尽くすことの代償は
高くつく可能性があります。
--ケント・M・キース
(人生の意味を見つけるための逆説の10カ条より)
キースは言います。
正直で率直である人は無防備であり、
どうすればその人を傷つけることができるのか、
世間に知らせることになると。
本当に助けを必要としている人に
助けの手を差し伸べて
逆に攻撃され酷いことを
言われるかもしれないと。
その時思う最善を尽くしても、
感謝もされず悲しい思いをすることになる、
なんと理不尽なのでしょう。
そんな嫌な思いを味わいたくないばかりに、
得てして私達は、
それが悪い事だと知っていても見てみぬフリをし、
弱者に目を止めることなく、
仲間はずれにされることを恐れ、
周りと横並びになろうとしてしまいます。
そして自分自身の目で、
きちんとものを見ることに怯えるのです。
私はこう思います。
この世界は因果応報で動いていると。
確かに、善なる種は善なる花を咲かせ、
邪な種は邪な実を結ぶのだと。
私達はものを考える時、
どうしても近距離でしか考える事ができません。
今あなたが頑張っている結果が、
もしあなたを酷く悲しませ傷つけたとしても、
そのことの本当の花が咲くのは
もっと先のことなのです。
最善を尽くしたあなたに
返えされたように見える苦痛や苦悩は、
実際は通り道にしか過ぎません。
10時間必死に行った受験勉強の結果は、
その後の社会生活の中で、
思わぬ形で花を咲かせるかもしれません。
死ぬほどのショックを味わった恋の経験は、
後の人生であなたに新しい扉を開かせるかもしれません。
いえ、実際はそのようにわかりやすい形で
花は咲かないかもしれません。
しかし何かの形で、貴方自身も気づかぬうちに
果報がもたらされているのです。
10年後の生活より、
1日後の支払いの事で目が回っている私達は、
いつもご褒美を求めてばかり。
神様の問いかけに中々気づくこともできません。
「それでも正しい事をしますか?」
みえない存在は、
いつもあなたにそう問いかけています。
勿論、何が正しくどれが最善であるのかは、
非常に難しい問題です。
自分では正義だと思っていても、
間違っていることもあります。
過去の時代では良かった事が、
後の世では犯罪となる事もあります。
先ほどのキースは、こうも言っています。
それでもなお、人を愛しなさい と。
人を愛するとはビジョンを持つことです。
自分が何のためにそれをしているのかを
考えてみてください。
もしあなたが
「自分にとって良い事が起こらないのなら、
努力も、善良な行いも、そんなことしたくない」
と思うのであれば、
それはとても悲しいことです。
南米の小さな蝶の羽ばたきが、
遠い国で雨を呼び
小麦を豊かに実らせるように、
あなたの善なる思いは、
あなたの未来へとつながっているのです。
遠い未来のあなたの喉を潤すのは、
はるか彼方の昔のあなたが
汗水垂らして掘りあげた井戸に湧く
清らかに澄んだ水にほかならないのです。
今回取り上げたケント・M・キースは、
ハーバードの学生の時に、
高校生に向けての冊子の中で
「逆説の10カ条」を書きました。
それはモーセの十戒を模したと思われる、
簡素な10の文章です。
キースはそれを「挑戦」の為の
文章として書きました。
若干19歳の少年が、
正しいこと、良いこと、誠実であること、
そしてそれを常に実行にうつすことは、
その事自体に意味があり価値があることで、
栄光は必要ではないと気づいたのでした。
それを短い10の文章にして書いたのです。
やがてこの文章は徐々に広まって行き、
インドのマザーテレサの元へ届きます。
カルカッタの「孤児の家」の壁に書かれた言葉達は、
やがてマザーテレサの言葉として世界中へ広まって行きました。
キースがそのことに気がついたのは、
彼が49歳になった時のことでした。
その後その言葉は再度キースによってまとめられ、
今こうして私が日本語で読むことができたのです。
この秋、おすすめの一冊です。
















クリック応援お願いします





















