昨日の続きです。
(昨日の記事はコチラ→地球中心という思考


ジオセントリック、
すなわち地球中心という意識の中では
私たちはその視点を、自己中心的なものとして持っている。

ただし自己中心的というのは、決して悪い意味ではない。
世界を映し出すカメラが、
自分という定点に備えられて360度を見渡しているという事なのだ。


けれどカメラはそれを持つ自分だけは写すことができない。
それがためにカメラが映し出す情報を処理する際に使うアプリが
自分の五感や感情というものを情報の上に乗せてしまう。
そうでなければカメラを持っている自分はただの傍観者であり、
唯一世界に属さないものになってしまうからだ。
そうして世界は補完され「私がいる世界」が生み出される。
ここに 一般的な意味での「自己中心的視点」が現れる。


このジオセントリックの視点の中では
全体性や客観性という「他人」とのつながりや関わりで生まれるものよりも
あくまでも個人の感覚やエゴに意識が囚われ、
狭い殻の中で反響する事象を眺めている事に気づく事ができない。


それゆえに私たちは、その感情の嵐すら
実は反響の結果のエコーに過ぎない可能性を見ることもなく
ただ、「自分」に夢中になってしまう。
世界から一人切り取られた孤独を握りしめてしまうのだ。


それは おそらく
ヘリオセントリックという視点を、
忘れてしまったせいなのかもしれない。



ヘリオセントリックとは太陽中心的思考である。



ヘリオセントリックでは、
まず太陽系全体を一個人とみなします。
つまりあらゆる人の自我の中心は「太陽」にあり、
そこから地球上に釣り糸を垂れるようにして
「肉体としての自分」が生まれている、という見方になります。
太陽からの光線は地球を始め、あらゆる惑星に降り注ぎます。
つまり、本来一つであった太陽から、
さまざまな「分身」が各惑星に降りていくイメージです。
今いる「肉体的な自分」はそうした「太陽の分身魂」の一つといえるでしょう。




ヘリオセントリックという視点では、
これまで私たちがもっていた定点カメラは天へと上り、
「今ここにいる自分」すらも映し出す。
その俯瞰図において私たちは、
個人の感情やエゴよりも他者とのつながりを感じ始め
もっと高い視点より物事を見、考える事が可能になるだろう。



・・ヘリオセントリックは、ジオセントリックより上の次元から
俯瞰的に物を考えます。
個人的ないがみあいや取り越し苦労(これは惑星の逆行のことです)が
急速に減少します。
またジオセントリックの場合、常に、
「地上から逃げ出そう」という意識が強く働くため、
日常生活に細かくのめりこんでいるわりに
投げやりになったりするわけですが、
”物事に意識的に取り組む”場合には、
ヘリオセントリックの視点が重要になります。




世界を高い位置から眺めてみれば
水星 金星 地球 火星 木星 土星 
それらが太陽を中心にしてまわり
ひとつの単位とみえるだろう。
そして、それぞれの惑星に
私たちのパーツが存在している。
そう それはまるで
太陽系という人体の中で輝くチャクラのように。
その視点で見てみれば
私たちは個でありながら全体であるという意識は
真なる意味を持っていることが理解できる。



本来アセンションとは、
こうした視点、つまり地球より高次元からの視点が
回復することを意味します。
銀河系の中にある恒星や、
太陽の次元からの全惑星意識を通じ、
地球へと降りてくる流れなのです。




過剰と減少はどちらも片手落ちなものだ。
どんなことでも偏りは新たな課題を生み出していく。


これまで ジオセントリック的意識が過剰であった人にとっては
ヘリオセントリックを意識することにより
他人との比較や競争が浮かびにくくなっていくだろう。
そして地球に生まれてきた意味や、
何故自分がここにいなくてはいけないのかといったことへ
個人のエゴを排除した視点での気づきを得る事ができる。


逆に中には、ヘリオセントリック的意識が過剰である人もいる。
これはひとつの課題を終えて、
今生が次の違う学びのステージに入っている人に見受けられる気がする。
そのような人にとっては、ジオセントリック的思考を意識することにより、
肉というものを得て生まれた「個人」や、
五感が自分にどのような影響を与えるのかを学ぶチャンスになるだろう。




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