2月26日 太陽のサビアンは
魚座 7度
・岩の上に横たわっている十字架
現在の太陽のテーマ→ 奉仕
●月の星座は
射手座
●13の月の暦は 銀河の月
Yellow Crystal Seed(黄色い水晶の種)
→(成長する力を共存させる日)
自分の中の頑なな部分が変革するかもしれない日。
何かを実現しようと思ったとき、
代わりに何かを失うのだと思ったことはないだろうか?
例えば仕事を一生懸命行うとき
休む時間や遊ぶ時間を失ってしまう。
例えば子供の教育を厳しく行うとしたら
なんでもいうことを聞いてくれるお母さんの像は
子供からは失われるだろう。
そしてそれは ある種
「もう一人の私」を失う瞬間でもある。
私たちがよく口にする「本当の私」という言葉。
おそらく先ほどのようなときに失われていくものを
「本当の気持ち」だったり
「本当の私」だと思っているのかもしれない。
思い出してほしい。
あなたはこんな台詞を思ったことはないだろうか?
(”本当は”私だって 子供を怒りたくなんかないわ)
(”本当は”俺だって仕事なんか投げ出したい)
そう。
私たちは、この「本当は」とつぶやく自分を
『本当の私』だと錯覚している。
あなたは なぜ子供に厳しくしているのか?
子供のため? 本当に?
確かに子供には躾も必要だろうし
勉学も必要だろう。
しかし 本当にそれだけなのだろうか?
もっと根本的に考えてみよう。
実は子供に厳しくしているのは、
『あなたが厳しくしたいから』ではないだろうか?
非難や注意を受けるような子供にしている母親だと
自分が思われることが嫌だからではないのか?
「子供のため」なのではなく
「自分のため」だったのでは ないのだろうか?
会社で 学校で 家庭で
あなたがその役割をしているのはなぜだろう?
例えば生活のために仕事をしているのかもしれない。
けれど、もしも本当にお金のためであるならば
他の仕事でもいいはずだ。
もしも会社のためだけでいいのなら
そんなに必死にならないのかもしれない。
そう 私たちはいつも
「自分がそうしたいからそうしている」ということを
すぐに忘れてしまう。
私たちは自分の一部を捨ててまで
「自分が思い描いているもの」になろうとしているのだ。
自分がしたいからそうしている ということは
やめることもできること なのに
いかなる犠牲を払っても行わなくてはならないことに
変化していってしまう。
時にそれは激しい思い込みや
いっそ狂信的な考えにまでなってしまうこともある。
子供に嫌われるという自己犠牲を払ってでも
子供を社会的に認知される存在にしたいという信念
家庭生活を犠牲にしてでも
会社に尽くすという信念
もちろんこれらは
善意のオブラートに包まれている。
そしてその信念はオブラートがあるが故に
もうひとつの自分を捨てたことによって
一種の殉教者のような感覚を私たちにもたらしてしまう。
それが実は自分の欲求からきていることであっても
犠牲にしたものや孤立が大きいほどに
そういった殉教者のような感覚が増してきてしまうのだ。
今日のサビアンにある横たわる十字架は
そういった私たちの誰しもが
なんらかの形で持っている
「殉教者」の部分の開放を示している。
そして岩はあなたの頑固な信念や
古い習慣を示している。
あなたの思い描いていた理想は
いつの間にか
悲壮ともいうべき信念に彩られていないだろうか?
何かに対する奉仕や犠牲という
一種宗教的な感覚が取り巻いてはいないだろうか?
「日常」の前でちょっと大きく深呼吸してみよう。
それらの感覚も
すべて自らの内側からやってきたのだと気づくとき
個人の力をバックアップし肯定してくれる
霊的な力強い援助があることを受け入れることができる。
それは ひとつの目覚めでもある。
I dedicate in order to target
Universalizing awareness
I seal the input of flowering
With the crystal tone of cooperation
I am guided by the power of intelligence
I am galactic activation portal enter me
今日のキーワード
cooperation/ dedicate/ universalize
協力/ 捧げる/ 普遍化する
awareness/ flowering/ targets
気づき/ 開花/ 目指す
それでは
今日も皆さんに
愛の雨が降り
幸せの風が吹き
喜びの光が照らしますように


・岩の上に横たわっている十字架
現在の太陽のテーマ→ 奉仕
●月の星座は

●13の月の暦は 銀河の月
Yellow Crystal Seed(黄色い水晶の種)
→(成長する力を共存させる日)







自分の中の頑なな部分が変革するかもしれない日。
何かを実現しようと思ったとき、
代わりに何かを失うのだと思ったことはないだろうか?
例えば仕事を一生懸命行うとき
休む時間や遊ぶ時間を失ってしまう。
例えば子供の教育を厳しく行うとしたら
なんでもいうことを聞いてくれるお母さんの像は
子供からは失われるだろう。
そしてそれは ある種
「もう一人の私」を失う瞬間でもある。
私たちがよく口にする「本当の私」という言葉。
おそらく先ほどのようなときに失われていくものを
「本当の気持ち」だったり
「本当の私」だと思っているのかもしれない。
思い出してほしい。
あなたはこんな台詞を思ったことはないだろうか?
(”本当は”私だって 子供を怒りたくなんかないわ)
(”本当は”俺だって仕事なんか投げ出したい)
そう。
私たちは、この「本当は」とつぶやく自分を
『本当の私』だと錯覚している。
あなたは なぜ子供に厳しくしているのか?
子供のため? 本当に?
確かに子供には躾も必要だろうし
勉学も必要だろう。
しかし 本当にそれだけなのだろうか?
もっと根本的に考えてみよう。
実は子供に厳しくしているのは、
『あなたが厳しくしたいから』ではないだろうか?
非難や注意を受けるような子供にしている母親だと
自分が思われることが嫌だからではないのか?
「子供のため」なのではなく
「自分のため」だったのでは ないのだろうか?
会社で 学校で 家庭で
あなたがその役割をしているのはなぜだろう?
例えば生活のために仕事をしているのかもしれない。
けれど、もしも本当にお金のためであるならば
他の仕事でもいいはずだ。
もしも会社のためだけでいいのなら
そんなに必死にならないのかもしれない。
そう 私たちはいつも
「自分がそうしたいからそうしている」ということを
すぐに忘れてしまう。
私たちは自分の一部を捨ててまで
「自分が思い描いているもの」になろうとしているのだ。
自分がしたいからそうしている ということは
やめることもできること なのに
いかなる犠牲を払っても行わなくてはならないことに
変化していってしまう。
時にそれは激しい思い込みや
いっそ狂信的な考えにまでなってしまうこともある。
子供に嫌われるという自己犠牲を払ってでも
子供を社会的に認知される存在にしたいという信念
家庭生活を犠牲にしてでも
会社に尽くすという信念
もちろんこれらは
善意のオブラートに包まれている。
そしてその信念はオブラートがあるが故に
もうひとつの自分を捨てたことによって
一種の殉教者のような感覚を私たちにもたらしてしまう。
それが実は自分の欲求からきていることであっても
犠牲にしたものや孤立が大きいほどに
そういった殉教者のような感覚が増してきてしまうのだ。
今日のサビアンにある横たわる十字架は
そういった私たちの誰しもが
なんらかの形で持っている
「殉教者」の部分の開放を示している。
そして岩はあなたの頑固な信念や
古い習慣を示している。
あなたの思い描いていた理想は
いつの間にか
悲壮ともいうべき信念に彩られていないだろうか?
何かに対する奉仕や犠牲という
一種宗教的な感覚が取り巻いてはいないだろうか?
「日常」の前でちょっと大きく深呼吸してみよう。
それらの感覚も
すべて自らの内側からやってきたのだと気づくとき
個人の力をバックアップし肯定してくれる
霊的な力強い援助があることを受け入れることができる。
それは ひとつの目覚めでもある。
I dedicate in order to target
Universalizing awareness
I seal the input of flowering
With the crystal tone of cooperation
I am guided by the power of intelligence
I am galactic activation portal enter me


cooperation/ dedicate/ universalize
協力/ 捧げる/ 普遍化する
awareness/ flowering/ targets
気づき/ 開花/ 目指す







それでは
今日も皆さんに
愛の雨が降り
幸せの風が吹き
喜びの光が照らしますように

