昨年の夏頃から続いてきた穢れの行が
ようやく終わりに近づいてきたと思う。

何年か前から
現在の私の観念では
「穢れ」だとしか感知しかできない領域の
ヒト モノ が発するものに触れることによって
私の中に沸き起こる
私自身が生み出す穢れに
いつも病みつかれ
もがいて苦しんでいた。

この思い
すなわち 怒りは
自家発酵を繰り返し私を苦しめる。
ごおごおと沸騰をする薬缶の
その吹き出す蒸気の出口に
無理やり固く栓を
自ら押し込んでいるのが
私だからだ。
出口の無い怒りは荒れ狂い
いつも最後は
その矛先として自分を責めるようになる。

大抵の事はどうでもいい私だけれども、
スピリチュアルに関してだけはなぜだか 
ひたすらに生真面目だし潔癖だ。
しかし潔癖は言い変えれば
我の強さでもあるのだ。
自分のものさしに合わぬものを
認められないのだ。


一見綺麗な事を口にしながら、
そこに優越感や階級性を持ち込んで
密かに気持ちよがっている自称スピ、
そしてその押し付けがましい商売ぶりを
見るにつけ聞くにつけ、
自分の内から湧いてしまう
激しい嫌悪感と怒り。
それをただ 
ずっとずっと抑えこみ
そうやって憤る自分自身を
罵倒し続けてきた。


けれど 私にはその思いを
大声で口にすることはできなかった。
なぜなら、
自分のものさしのあやふやさ
その曖昧さを
誰よりも知っていると思っていたから。

いや 違う。

たしかに それもあった。
でも そうじゃない。
私は 声を上げる事が怖かったのだ。
声を上げて 自分の怒りを表に出せば
誰かに打ち返されるかもしれないと。
自分自身の根拠の曖昧さ
自分自身の自信のなさが
私の口を噤ませ
言えぬ分だけ 自分を責めて
心身症のようになっていったのだ。

憤る分だけ
私は無言になり
そして
醸造されていった怒りという感情は
私自身を穢していく。
この怒りから解き放たれなければならないと
そう思いながら
目の前で繰り広げられている
新たなカースト
そして新たな弱者と強者を作り出す
スピリチュアルハラスメントから
眼をそらす勇気さえ無かったのだ。


そうして自分を責めた。
ただひたすらに責めた。

何も出きぬ自分
何もしない自分
力無き自分

そう 力無き自分に対する怒り。
しかし力なき自分とはなんなのか?
それは 「圧倒的」で「完璧な」力を
持たない自分ということではないのか

なんという事だろう。
私は結局自分が嫌悪していたものと
同じ思考でしかなかったのだ。

「9割確実な未来しか教えるな」
「ロトの数字を当てろ」
「奴らを不幸にして後悔させてくれ」
「これを買ったらメッセージを伝えてあげる」
「自分は霊も見えないけど除霊できるんです」
「地震が起きたのは自分の祈りが足りないからだ」

そういうあれやこれやを言う人たちの
根底にあるものと
私が怒りの先に辿り着いた思いは
どれほどの違いがあったのか。

そこにあったのは
肥大しきった自我 それだけだ。


クリスマスの前から
私は 毎日頭痛に襲われ
嘔吐するようになっていた。
頭痛が無い日は発熱し
最低限の家事以外
何も出来なくなっていった。
余りの頭痛の酷さに
脳腫瘍を疑われ
検査を繰り返された。

結局年末には 私には
また新たな病名が幾つか付け足され
大量の鎮痛剤が与えられた。
しかし 私は知っていた。
この痛みを助長しているのは
義憤という名前を借りた執念なのだと。


そう怒りとは、
所詮執着の結果のひとつの現われなのだ。
なにが原因であろうとも。
そこに対する感情の拘り滞りなのだ。

私はやがて返信どころか
メールボックスを見る事すらも出きなくなっていた。

自分の心の卑しさに気がつき
自分の傲慢さに気がつき
自分の汚さにのたうちまわり
日が上り月が沈むまで
毎日自分を責め苦しみ悶え続けた。


今 ようやく
私は苦しみの一里塚を超えることが 
できたようだ。
私は自分の驕りを受け入れることがやっと出来た。
なによりこうしてブログを書く事が出来るようになった事
それが証拠だと思う。
やっと 皆さんと
お話をする事ができるようになったのだ。


私にはこの業を
なかなかクリアすることは出来ないだろう。
又いづれか繰り返す事はわかっている。
それでも 精一杯苦しんで
そうして今日も生きている。
苦しみが去り行く今こそ
ようやく神仏に問いかける事が出来る。

『私は一人悩み苦しみました。それで良かったのですか』

金色の光を放つ神仏達が
私を中心にした曼荼羅のように並びたち
眩く そして あまりに温かな光を放ちながら
私に向かって莞爾とするのが観えた。