「人と同じでいたい」という気持ちは
私達の動物的本能からやってくるのではないかと
そう考えたことがある
人類は集団で生きる動物で
集団に適合できないということは
おそらく生存競争の中では非常に不利だったのだろう
私たちが新モンゴロイドの子孫だとしたなら
厳しい自然と勝ち抜いて生き残るためには
集団になるということは必然であったように思う
古モンゴロイドと比較して、身体的特徴に寒冷適応が多く見られる。
たとえば、一重まぶた・蒙古襞は目を凍傷から守るため、
乾いた耳垢も耳の凍結を守るため、
ずんぐりした体型や凹凸の少ない顔などもなるべく体熱を逃さないための適応だと考えられる。
体毛の少なさも身体に付着した水滴が凍結しないための適応に由来するとみられる。
新モンゴロイドは、おもに現在のモンゴル・シベリア・朝鮮半島・華北地方に多く居住するとされる。
日本には、紀元前3世紀(弥生時代)頃から、
鉄器と青銅器を携えて渡来し、それらをもたらしたとされている(弥生人)。wikiより
肉体がそれだけ適応を遂げる中
思考が変化を遂げないということは
私には逆に不自然に思える
それは人の遺伝子に生き残るための記憶の情報として残り
そうして人はひとりになると不安になったり
誰かに認められないと不安だったりするのではないだろうか?
また この私の住む日本国では
豊臣秀吉の五人組制度より
長きに渡り連帯責任・相互監察・相互扶助が行われてきた
この制度は後に第二次世界大戦時の隣組制にまで
形を変えながら継続されていく
誰かが何かをするということが命の危機を伴っていた
赤狩りがどんなものだったのか思えている人もいるはずだ
(この項では相互扶助の有益性についてはあえて触れない)
常に他者との違いを意識してきた私達にとって今の時代ほど
他者との違いが不明確になった時代は少ないのではなかろうか
ほんの100年前までは
髪型 化粧法 服装をみれば
その女性が未婚か否か 子供がいるか否か
身分は何なのかすべてがわかっていたのに
今では 独身か既婚か まして子供がいるかいないのか
外見では判別が非常につきにくい
食べるのに生きるのに自由になった代わりに
かつてあった帰属先が失われてしまったのだ
飢えない国 長寿の国の私達
帰属先を失い向かった先が
明治政府の作った『家庭』が幻想化し始めた今
『個人』という文化にすがり始める
『個人』を尊ぶということは
同一化均等化を是であるとばかりは言わず
私達の『人とおなじでいたい』という本能は
卑下される感情として貶められていく
その軋轢の中で
ある人は会社というものに
ある人は宗教に
ある人はスピリチュアルにと
さまざまな依存先を求めてさまよう
まさに三つ子の魂百まで ではなかろうか
生き残るために必要だった「同化」という感情は
もはやそれが不必要になっても
解除されないのだ
もちろん こんなに命の危機の無い時代が
後何百年なり続いたならあるいは・・・・
もちろん これがすべてだとは言わない
けれど 人は心でのみ生きているのではない
人の体は遺伝子を運ぶ乗り物であり
私達もそれに寄生してこの世に存在している
常に心と体は影響しあい支配しあう
寂しさの理由 ヒト恋しさの理由
あてどない不安が外的要因ではなく
自分の精神とも関係ないところにある可能性を
もしかしたら見つけることもできるかもしれない
一度の日記でまとめるために
随分はしょった内容になってしまったので
非常に伝わりにくそうな日記でごめんなさい
毎回「とにかく短く!」を念頭に書いているのですが
おかげで 意味不明になることが多くて
まさに意味無いじゃんです 涙
いつも読んでくださって 有難う
あなたのご訪問が私を元気にしてくれています
私達の動物的本能からやってくるのではないかと
そう考えたことがある
人類は集団で生きる動物で
集団に適合できないということは
おそらく生存競争の中では非常に不利だったのだろう
私たちが新モンゴロイドの子孫だとしたなら
厳しい自然と勝ち抜いて生き残るためには
集団になるということは必然であったように思う
古モンゴロイドと比較して、身体的特徴に寒冷適応が多く見られる。
たとえば、一重まぶた・蒙古襞は目を凍傷から守るため、
乾いた耳垢も耳の凍結を守るため、
ずんぐりした体型や凹凸の少ない顔などもなるべく体熱を逃さないための適応だと考えられる。
体毛の少なさも身体に付着した水滴が凍結しないための適応に由来するとみられる。
新モンゴロイドは、おもに現在のモンゴル・シベリア・朝鮮半島・華北地方に多く居住するとされる。
日本には、紀元前3世紀(弥生時代)頃から、
鉄器と青銅器を携えて渡来し、それらをもたらしたとされている(弥生人)。wikiより
肉体がそれだけ適応を遂げる中
思考が変化を遂げないということは
私には逆に不自然に思える
それは人の遺伝子に生き残るための記憶の情報として残り
そうして人はひとりになると不安になったり
誰かに認められないと不安だったりするのではないだろうか?
また この私の住む日本国では
豊臣秀吉の五人組制度より
長きに渡り連帯責任・相互監察・相互扶助が行われてきた
この制度は後に第二次世界大戦時の隣組制にまで
形を変えながら継続されていく
誰かが何かをするということが命の危機を伴っていた
赤狩りがどんなものだったのか思えている人もいるはずだ
(この項では相互扶助の有益性についてはあえて触れない)
常に他者との違いを意識してきた私達にとって今の時代ほど
他者との違いが不明確になった時代は少ないのではなかろうか
ほんの100年前までは
髪型 化粧法 服装をみれば
その女性が未婚か否か 子供がいるか否か
身分は何なのかすべてがわかっていたのに
今では 独身か既婚か まして子供がいるかいないのか
外見では判別が非常につきにくい
食べるのに生きるのに自由になった代わりに
かつてあった帰属先が失われてしまったのだ
飢えない国 長寿の国の私達
帰属先を失い向かった先が
明治政府の作った『家庭』が幻想化し始めた今
『個人』という文化にすがり始める
『個人』を尊ぶということは
同一化均等化を是であるとばかりは言わず
私達の『人とおなじでいたい』という本能は
卑下される感情として貶められていく
その軋轢の中で
ある人は会社というものに
ある人は宗教に
ある人はスピリチュアルにと
さまざまな依存先を求めてさまよう
まさに三つ子の魂百まで ではなかろうか
生き残るために必要だった「同化」という感情は
もはやそれが不必要になっても
解除されないのだ
もちろん こんなに命の危機の無い時代が
後何百年なり続いたならあるいは・・・・
もちろん これがすべてだとは言わない
けれど 人は心でのみ生きているのではない
人の体は遺伝子を運ぶ乗り物であり
私達もそれに寄生してこの世に存在している
常に心と体は影響しあい支配しあう
寂しさの理由 ヒト恋しさの理由
あてどない不安が外的要因ではなく
自分の精神とも関係ないところにある可能性を
もしかしたら見つけることもできるかもしれない
一度の日記でまとめるために
随分はしょった内容になってしまったので
非常に伝わりにくそうな日記でごめんなさい
毎回「とにかく短く!」を念頭に書いているのですが
おかげで 意味不明になることが多くて
まさに意味無いじゃんです 涙
いつも読んでくださって 有難う
あなたのご訪問が私を元気にしてくれています