私の母が今年重い病に倒れ
入院していたことを
以前このブログに書いた
その時に起こった
少し不思議な話を書こうと思う
その前にまずお話したい人物がいる
私の母の兄
つまり私の母方の伯父である
私の母には兄がいた
名前を「たてお」と言い
母は「たてお兄ちゃん」と呼んでいたそうだ
私の祖父 つまり母の父は
海軍に勤める職業軍人で
長男である たてお兄ちゃんは
軍隊式の教育で非情に厳しく育てられたらしい
幼心に私の母は
長男に生まれるということが
どんなに大変なことなのか
両親の兄さんへの扱いに感じていたという
しかもたてお兄ちゃんは普通の子供ではなかった
小学生の時に既に高校のレベルを理解しており
田舎の小学校では完全に
もてあまされた存在だった
当時 神童と囁かれていたこの長男を
祖父はどれほどの期待を込めて
育てていたことであろうか
その期待の重さの分だけ
子供の目には行き過ぎと映るほどの
しつけと教育がなされたのだった
小学校を出ると中学高校は
席だけあるという状態になっていた
見た目も背が高く大きな目をした兄ちゃんは
スポーツをやらせれば県下でもトップ入賞し
勉学においてはもはや
東海に並ぶものなしと言われるほどで
田舎の学校では何もすることがなくなっていた
その段階でも国立ならまず間違いなく受かったであろう
あまりに出来すぎる兄ちゃんには
この田舎は苦痛だった
幼い頃から人並み外れてしまっていた彼には
対等に話せる友も出来なかったのだ
母はそんな兄が自慢でならなかったが
それでも兄の孤独を肌で感じていた
実際周りもそのことは分かっており
大学へという話が当然のように出た
ところが彼は反発心が強かった
普通に大学へ行くなどつまらないと
今でいうところの夜学への入学を希望し
東京へと出て行ったのだった
もちろん 両親の
金銭的負担を考えての行動だったのだろう
全国でも20人ほど
岐阜県では2人しか選ばれなかった某会社の
奨学金の選抜試験を受け合格した上での
東京行きだった
夜学とは言っても
午前と夕方に大学に通い
合間をその会社で働くというもので
寮費も学費も無料な上
給料までまるまるいただけるという
今では考えられない好条件だったのだ
しかしこれが運命というものなのであろうか
祖父の期待を背負い
郷土の誇りといわれた たてお兄ちゃんは
その東京で ある日突然
無人のトラックに撥ねられ帰らぬ人となった
祖父が駆けつけたときには
もはや小さなお骨になっていたという
まだ22歳だった
祖父も祖母も そして母も
50年前のこの日のことを
それから忘れることはできなかった
思いの深さの分だけ
みな口を閉ざし
思いを胸の奥へしまいこんだ
口にするにはつらすぎて
名前を口にすることも出来なかったのだった
急な死のどさくさで
たてお兄ちゃんの荷物も散逸してしまった上に
戦争がわずかなものをも灰にへと変えた
そして昭和の日は流れて
思い出はただ
仏間に飾られた遺影ひとつとなっていた
ある日独り言のように
一度だけ祖父はこういったという
「こんなに早く逝くのなら
あんなに厳しくするのでは無かった・・・」
その間際まで後悔しながら祖父が逝き
それから気丈な祖母が逝った
たてお兄ちゃんのことを思い出す人も
もう母のほかにはいなくなった
誰からも愛され憧れられた
たてお兄ちゃんは
こうして50年という月日の向こうへと消えていった
母がどれだけ願おうと
どれだけ思いを込めようと
一度も夢にも幻にも現れることはなかった
母は時折私にこうつぶやいた
「あまりに全てが出来すぎやった
ああいう人間は やっぱり長く生きられんのや・・
一度でいい もう一度兄ちゃんに会いたい・・・」
ところが
これぞまさに運命のいたづらといおうか
思わぬところで母は
兄と出会うことになったのである
(続く)
入院していたことを
以前このブログに書いた
その時に起こった
少し不思議な話を書こうと思う
その前にまずお話したい人物がいる
私の母の兄
つまり私の母方の伯父である
私の母には兄がいた
名前を「たてお」と言い
母は「たてお兄ちゃん」と呼んでいたそうだ
私の祖父 つまり母の父は
海軍に勤める職業軍人で
長男である たてお兄ちゃんは
軍隊式の教育で非情に厳しく育てられたらしい
幼心に私の母は
長男に生まれるということが
どんなに大変なことなのか
両親の兄さんへの扱いに感じていたという
しかもたてお兄ちゃんは普通の子供ではなかった
小学生の時に既に高校のレベルを理解しており
田舎の小学校では完全に
もてあまされた存在だった
当時 神童と囁かれていたこの長男を
祖父はどれほどの期待を込めて
育てていたことであろうか
その期待の重さの分だけ
子供の目には行き過ぎと映るほどの
しつけと教育がなされたのだった
小学校を出ると中学高校は
席だけあるという状態になっていた
見た目も背が高く大きな目をした兄ちゃんは
スポーツをやらせれば県下でもトップ入賞し
勉学においてはもはや
東海に並ぶものなしと言われるほどで
田舎の学校では何もすることがなくなっていた
その段階でも国立ならまず間違いなく受かったであろう
あまりに出来すぎる兄ちゃんには
この田舎は苦痛だった
幼い頃から人並み外れてしまっていた彼には
対等に話せる友も出来なかったのだ
母はそんな兄が自慢でならなかったが
それでも兄の孤独を肌で感じていた
実際周りもそのことは分かっており
大学へという話が当然のように出た
ところが彼は反発心が強かった
普通に大学へ行くなどつまらないと
今でいうところの夜学への入学を希望し
東京へと出て行ったのだった
もちろん 両親の
金銭的負担を考えての行動だったのだろう
全国でも20人ほど
岐阜県では2人しか選ばれなかった某会社の
奨学金の選抜試験を受け合格した上での
東京行きだった
夜学とは言っても
午前と夕方に大学に通い
合間をその会社で働くというもので
寮費も学費も無料な上
給料までまるまるいただけるという
今では考えられない好条件だったのだ
しかしこれが運命というものなのであろうか
祖父の期待を背負い
郷土の誇りといわれた たてお兄ちゃんは
その東京で ある日突然
無人のトラックに撥ねられ帰らぬ人となった
祖父が駆けつけたときには
もはや小さなお骨になっていたという
まだ22歳だった
祖父も祖母も そして母も
50年前のこの日のことを
それから忘れることはできなかった
思いの深さの分だけ
みな口を閉ざし
思いを胸の奥へしまいこんだ
口にするにはつらすぎて
名前を口にすることも出来なかったのだった
急な死のどさくさで
たてお兄ちゃんの荷物も散逸してしまった上に
戦争がわずかなものをも灰にへと変えた
そして昭和の日は流れて
思い出はただ
仏間に飾られた遺影ひとつとなっていた
ある日独り言のように
一度だけ祖父はこういったという
「こんなに早く逝くのなら
あんなに厳しくするのでは無かった・・・」
その間際まで後悔しながら祖父が逝き
それから気丈な祖母が逝った
たてお兄ちゃんのことを思い出す人も
もう母のほかにはいなくなった
誰からも愛され憧れられた
たてお兄ちゃんは
こうして50年という月日の向こうへと消えていった
母がどれだけ願おうと
どれだけ思いを込めようと
一度も夢にも幻にも現れることはなかった
母は時折私にこうつぶやいた
「あまりに全てが出来すぎやった
ああいう人間は やっぱり長く生きられんのや・・
一度でいい もう一度兄ちゃんに会いたい・・・」
ところが
これぞまさに運命のいたづらといおうか
思わぬところで母は
兄と出会うことになったのである
(続く)