そろそろ御馴染みになってきた感のある
母方の実家の思い出話なのだが
今回は私が幼いころに
祖父から聞いたお狐さんの話
私の母方の祖父は
敗戦を迎えるまで職業軍人をしていた
職業軍人というのは
いわゆる徴兵で軍役につくのとは違い
現在でいう国家公務員のようなものだったらしい
祖父は岐阜の山奥に生まれたのだが何の縁か
海軍に入り戦前は世界の海を駆け巡っていた
その当時の海軍での生活を聞くと
いわゆる悲惨な日本軍のイメージとは
まったくかけ離れている
祖父の乗っていた軍艦では
英国風をモットーとしており
テーブルマナーはもとより
英会話に社交ダンスなどの習得が必須であり
海外の各地に寄港するごとに
日本人の代表として
常に紳士であることを徹底され
スマートであることを求められたそうだ
また船の上では
毎日体力作りのために
笛にあわせての体操を行っていたそうだが
軍艦にはいつも
イルカの群れがついてきており
体操の笛に合わせては
祖父たちの体操を真似るかのごとく
ひれをばたつかせてジャンプをするなど
愛嬌を振舞っていたそうだ
祖父は懐かしそうに
「イルカという生き物は本当に可愛かったんやぞ」
と 膝の上に私を載せては聞かせてくれた
滅多にない休暇の折には
真っ白な軍服を身にまとい
白馬にのって帰って来るそのさまは
山奥の娘達の憧れだったそうで
祖母はそんな祖父と結婚したことを
とても自慢にしていた
祖父は祖父で 軍の中でも
少し特殊な任務についていたこともあり
中々帰って来ることの出来ない埋め合わせにと
祖母には必ずフランス製のコティーの白粉や
シベリアのラッコの毛皮のコートなど
子供達には南洋の様々な貝殻や綺麗な絵本なんぞを
たっぷりお土産にしては
満面の笑顔で帰って来るのだった
母によると祖父は家にいる間
寄港先のインドで仕入れたスパイスで
海軍仕込みのカレーをよく作ってくれたという
しかしそんな生活も
敗戦によりいっぺんし
祖父は岐阜へと戻り
地元で事業を起こすことなった
日本各地や世界を観てきている祖父は
戦後の混乱の中で復興しようとする
近隣の町村の重鎮たちにとって
もってこいの相談相手だったようで
自らの仕事をこなした後は
毎夜のように料理屋で接待を受け
その相談にのっていたらしい
接待されながらも祖父は
出された料理には殆ど手をつけることなく
いつも折りに詰めてもらっては
家へと持ち帰ることにしていた
祖父は常に家族が一番の人だったのだ
夜もとっぷりと更けた頃
祖父は片手にカバンを抱え
もう片方にはご馳走の詰まった折り詰めを持ち
満天の星空の下月明かりを頼りに
妻子の待つ田舎家へと足を運ぶ
料理屋のある町から祖父の住む家までは
片道5キロほどの道のりだ
山と山の間を細く縫うように作られた街道は
上古の昔より人の往来により
足で踏み固めて作られた土の道で
大人が二人並んで歩くのがやっとのような
それはそれは頼りないものだったのだが
私が10になるかならぬかの頃までは
誰もがその道をてくてくと
歩いては通学に通勤にと利用せねばならぬ
唯一無二の道だった
両側から迫る山はまるで
漆黒の影を切り取ったかのように聳え立ち
街路灯も無い中を祖父は迷いもなく歩んでいく
やがて道のりを2/3も過ぎた頃
ひょっこりと小さな祠が現れる
小さな小さなその古びた祠は
ここが村境なのだ教えてくれる大切な目安で
この里の者は誰もその祠を目にすると
あぁ帰ってきた さて家までもうひとふんばりと
足取りも軽くなるのであった
祖父も横目でその祠を眺めながら
(あぁすっかり遅なってまった
千代さ(祖母)が待っといでるで 早う帰らななあ)
と 更に足を急がせた
やっと家についた頃
既に牛三つ時であったが
祖母の千代は起きて待っていた
程よく酔いも覚めた祖父も
待っていた祖母も軽く小腹が空いていた
そこでお土産の折り詰めを
少し二人でつまむ事にした
どうせ刺身などはとっておいても
悪くなってしまうだろうから
捨てるのももったいないのだしと
折り詰めを空けたとたん
祖父はあっと驚き
そしてあははと笑い出した
何事かと思った祖母も
折り詰めの中身を見たとたん
あれまぁと呆れた顔をした
「千代さ また 狐にやられてもうたわ」
なんと折り詰めの中の
刺身と海老の天麩羅が
すっかり無くなっていたのである
「また あそこの狐かいね ほんにまぁ」
祖母は首を横に振りながら
なんとも情けない顔をした
実は街道沿いにある
あの古びた祠のあたりには
昔から狐がいると言われていた
食事の材料の買出しにも
あの道を必ず村人達は通っていたのだが
町の食料店で肉やら魚やら買い込んで
えっちらおっちら荷物を持って
ようやく家にたどり着き
そうして袋を開けてみると
必ず何かが無くなっているのである
しかも全部なくなっていることは無くて
必ず一部がなくなっているのだった
例えば5人家族に秋刀魚を5匹買えば
1匹必ず消えていた
コロッケを5つ買えば1,2個は消える
もちろんお揚げなどは半分なくなっていたし
時には生卵が1つ2つ姿を消した
持ち帰りの天麩羅などは
ちくわやサツマイモなど
いかにも狐が好きそうなものだけが
これまたこっそり消えているのだった
どんなにきっちり袋を縛っておいても
胸にしっかり入れていても
買うときにくどくど数えて購入していても
何のことは無い家についてみれば
あっさり無くなっているのだ
里の人々はこれは狐の仕業だから
仕方が無いと諦めていて
あらかじめ何かひとつ狐の為に買い求めては
祠に供え 他のものは盗むなよと
見えない狐に言い聞かせては
家へと帰って行くようになった
しかしこのいたづら狐も
毎度毎度いたづらをするわけでもなく
忘れたころにぽつぽつとしでかすので
里人は あぁまたやられた!と
家についてからそのたびに
悔しい思いをするのである
この狐のいたづらは
いったい何時の時代から始まったものなのか
そして今もまだ続いているのかは
もうまったく分からない
幼い私を連れてあの祠の前を通るとき
狐がお前をみとるぞと
豪快に笑っていたあの祖父も
亡くなってから27年の月日が流れた
祖父も祖母も亡くなってから
母も在所へ顔を見せることは殆ど無くなっている
そして例のあの祠のある街道も
100メートルほど離れた場所に
片側1車線の立派な舗装道が出来
今では通る人も稀な道となってしまった
これもやがて草木に埋もれ
山の中へと消えていくのだろう
祖父の墓参りへと私は車を走らせながら
流れる景色の中であの祠をそっと見た
あのいたづら狐は今どうしているのだろう
どんなにいたづらをしたくても
もう誰もあの道は通ってくれはしない
今でもあの祠のそばで
誰かが通りかかるのを
こっそり待ち構えているのだろうか
過ぎていく風景の中に
幼き頃の私が
大好きだった祖父の
大きな大きな手にぶら下がり
あの道を里へと帰っていく幻をみたような
そんな気がした
母方の実家の思い出話なのだが
今回は私が幼いころに
祖父から聞いたお狐さんの話
私の母方の祖父は
敗戦を迎えるまで職業軍人をしていた
職業軍人というのは
いわゆる徴兵で軍役につくのとは違い
現在でいう国家公務員のようなものだったらしい
祖父は岐阜の山奥に生まれたのだが何の縁か
海軍に入り戦前は世界の海を駆け巡っていた
その当時の海軍での生活を聞くと
いわゆる悲惨な日本軍のイメージとは
まったくかけ離れている
祖父の乗っていた軍艦では
英国風をモットーとしており
テーブルマナーはもとより
英会話に社交ダンスなどの習得が必須であり
海外の各地に寄港するごとに
日本人の代表として
常に紳士であることを徹底され
スマートであることを求められたそうだ
また船の上では
毎日体力作りのために
笛にあわせての体操を行っていたそうだが
軍艦にはいつも
イルカの群れがついてきており
体操の笛に合わせては
祖父たちの体操を真似るかのごとく
ひれをばたつかせてジャンプをするなど
愛嬌を振舞っていたそうだ
祖父は懐かしそうに
「イルカという生き物は本当に可愛かったんやぞ」
と 膝の上に私を載せては聞かせてくれた
滅多にない休暇の折には
真っ白な軍服を身にまとい
白馬にのって帰って来るそのさまは
山奥の娘達の憧れだったそうで
祖母はそんな祖父と結婚したことを
とても自慢にしていた
祖父は祖父で 軍の中でも
少し特殊な任務についていたこともあり
中々帰って来ることの出来ない埋め合わせにと
祖母には必ずフランス製のコティーの白粉や
シベリアのラッコの毛皮のコートなど
子供達には南洋の様々な貝殻や綺麗な絵本なんぞを
たっぷりお土産にしては
満面の笑顔で帰って来るのだった
母によると祖父は家にいる間
寄港先のインドで仕入れたスパイスで
海軍仕込みのカレーをよく作ってくれたという
しかしそんな生活も
敗戦によりいっぺんし
祖父は岐阜へと戻り
地元で事業を起こすことなった
日本各地や世界を観てきている祖父は
戦後の混乱の中で復興しようとする
近隣の町村の重鎮たちにとって
もってこいの相談相手だったようで
自らの仕事をこなした後は
毎夜のように料理屋で接待を受け
その相談にのっていたらしい
接待されながらも祖父は
出された料理には殆ど手をつけることなく
いつも折りに詰めてもらっては
家へと持ち帰ることにしていた
祖父は常に家族が一番の人だったのだ
夜もとっぷりと更けた頃
祖父は片手にカバンを抱え
もう片方にはご馳走の詰まった折り詰めを持ち
満天の星空の下月明かりを頼りに
妻子の待つ田舎家へと足を運ぶ
料理屋のある町から祖父の住む家までは
片道5キロほどの道のりだ
山と山の間を細く縫うように作られた街道は
上古の昔より人の往来により
足で踏み固めて作られた土の道で
大人が二人並んで歩くのがやっとのような
それはそれは頼りないものだったのだが
私が10になるかならぬかの頃までは
誰もがその道をてくてくと
歩いては通学に通勤にと利用せねばならぬ
唯一無二の道だった
両側から迫る山はまるで
漆黒の影を切り取ったかのように聳え立ち
街路灯も無い中を祖父は迷いもなく歩んでいく
やがて道のりを2/3も過ぎた頃
ひょっこりと小さな祠が現れる
小さな小さなその古びた祠は
ここが村境なのだ教えてくれる大切な目安で
この里の者は誰もその祠を目にすると
あぁ帰ってきた さて家までもうひとふんばりと
足取りも軽くなるのであった
祖父も横目でその祠を眺めながら
(あぁすっかり遅なってまった
千代さ(祖母)が待っといでるで 早う帰らななあ)
と 更に足を急がせた
やっと家についた頃
既に牛三つ時であったが
祖母の千代は起きて待っていた
程よく酔いも覚めた祖父も
待っていた祖母も軽く小腹が空いていた
そこでお土産の折り詰めを
少し二人でつまむ事にした
どうせ刺身などはとっておいても
悪くなってしまうだろうから
捨てるのももったいないのだしと
折り詰めを空けたとたん
祖父はあっと驚き
そしてあははと笑い出した
何事かと思った祖母も
折り詰めの中身を見たとたん
あれまぁと呆れた顔をした
「千代さ また 狐にやられてもうたわ」
なんと折り詰めの中の
刺身と海老の天麩羅が
すっかり無くなっていたのである
「また あそこの狐かいね ほんにまぁ」
祖母は首を横に振りながら
なんとも情けない顔をした
実は街道沿いにある
あの古びた祠のあたりには
昔から狐がいると言われていた
食事の材料の買出しにも
あの道を必ず村人達は通っていたのだが
町の食料店で肉やら魚やら買い込んで
えっちらおっちら荷物を持って
ようやく家にたどり着き
そうして袋を開けてみると
必ず何かが無くなっているのである
しかも全部なくなっていることは無くて
必ず一部がなくなっているのだった
例えば5人家族に秋刀魚を5匹買えば
1匹必ず消えていた
コロッケを5つ買えば1,2個は消える
もちろんお揚げなどは半分なくなっていたし
時には生卵が1つ2つ姿を消した
持ち帰りの天麩羅などは
ちくわやサツマイモなど
いかにも狐が好きそうなものだけが
これまたこっそり消えているのだった
どんなにきっちり袋を縛っておいても
胸にしっかり入れていても
買うときにくどくど数えて購入していても
何のことは無い家についてみれば
あっさり無くなっているのだ
里の人々はこれは狐の仕業だから
仕方が無いと諦めていて
あらかじめ何かひとつ狐の為に買い求めては
祠に供え 他のものは盗むなよと
見えない狐に言い聞かせては
家へと帰って行くようになった
しかしこのいたづら狐も
毎度毎度いたづらをするわけでもなく
忘れたころにぽつぽつとしでかすので
里人は あぁまたやられた!と
家についてからそのたびに
悔しい思いをするのである
この狐のいたづらは
いったい何時の時代から始まったものなのか
そして今もまだ続いているのかは
もうまったく分からない
幼い私を連れてあの祠の前を通るとき
狐がお前をみとるぞと
豪快に笑っていたあの祖父も
亡くなってから27年の月日が流れた
祖父も祖母も亡くなってから
母も在所へ顔を見せることは殆ど無くなっている
そして例のあの祠のある街道も
100メートルほど離れた場所に
片側1車線の立派な舗装道が出来
今では通る人も稀な道となってしまった
これもやがて草木に埋もれ
山の中へと消えていくのだろう
祖父の墓参りへと私は車を走らせながら
流れる景色の中であの祠をそっと見た
あのいたづら狐は今どうしているのだろう
どんなにいたづらをしたくても
もう誰もあの道は通ってくれはしない
今でもあの祠のそばで
誰かが通りかかるのを
こっそり待ち構えているのだろうか
過ぎていく風景の中に
幼き頃の私が
大好きだった祖父の
大きな大きな手にぶら下がり
あの道を里へと帰っていく幻をみたような
そんな気がした