翌日22時35分
私とTさんは生ぬるい空気が噴出すMRTの出口で
黄さんを探していた
待ち合わせた駅の周りは
既に見慣れ始めた西門辺りの賑わいが嘘のように
人通りもなくシャッターの開いている店も少ない
切れかけた街路灯の明滅する道は
行き交う車もほとんどなかった
歩道の暗がりの向こうから
自動販売機の明かりが
まるで夜光虫のように
怪しげな光を投げかけている

あぁ
私は今 異国の夜にいる

ふと私の心を不安の針がちくんと刺す
いっそ猥雑に感じるこの通りの雰囲気が
かつて若い頃何度も襲われたり
監禁されかかったあの遠い記憶を
生々しく思い出させていたのだった

こんな異国で今さらわれたら・・

それはこれから始まるタンキーとの出会いへの
不安が姿を変えたものだと知っていた
こんな経験は私にとって
今まで本の中にだけ存在するものだったのだ
会いたいとは思っていたけれど
強く願ったわけでもなかった
なのに どうだろう
今私は「オカルト」の世界に手を触れようとしている
憧憬と恐怖と
それはまるで
処女を失う痛みへの恐れにも似ている気がした

「よく来れましたね!」

路地から突然 黄さんの声がしたと思うと
肉付きの良い体が私を抱きしめた

「私の日本語下手ですから 
電話で教えたの分らないと思い心配でしたよ!」

満面の黄さんの笑顔に背中を押され
促がされるまま私とTさんは
住宅街へと続く細い路地へと導かれていった

塀に囲まれた静かな住宅街の中
黄さんの声が響く

「あなたたち運がいいです 
今日は台湾の神様の特別の日なんですよ」

「特別な日?」

そういえば昨日の電話でも
そんなことを言っていた

「今日は天公の誕生日なのです
台湾の神様はみんな誕生日がありますね
だから誕生日にはお祭りをします
天公は神々の中でも特に特別な神様です
あなた運がいいですよ!」

天公とはすなわち
玉皇上帝と呼ばれる神である
東アジアの道教において
実質の最高神とされている神格だ
あらゆる神・仙人を統御する存在で
また人間の行為を算定し
その運命を決定すると言われている
特に国家祭祀の対象として
時の権力者に篤く崇敬され
今でも民衆によって深く拝されているらしい

しかし天公がどのような存在なのかは
ホテルに帰ってから調べてわかったことなので
この時点では 
なんだかわからないけど
凄いらしいぞとしか
思ってはいなかった
何しろ神様に誕生日があるという所で
かなりへーへーへーだったからである
そりゃ確かにキリストにも誕生日があるんだから
道教の神様だって誕生日くらいあっても
問題ないのだろう
中には関公のように
実際人間だったお方もおいでなのだし

ふと前を見ると
細い十字路を抜けた向こうに
一軒のお店があるのが見えた
そこは小さなふるい商店のようだった
歩道にまで並べられたダンボールの数々
そしてその間を品定めするかのように
幾人かの人々が品物を手にとり
談笑している様子が見て取れた

もう11時近いというのに
もしかして夜間営業の店なのかなぁ?

台湾では朝ご飯屋(早餐屋)のように
早朝4時ころ開店し朝8時には閉めてしまう店もあり
営業時間というのは
かなりフレキシブルになっているようなので
夜中しかやっていない食料品店もあるのだろうと
何気なく考えていたのだった

お店の前まで来ると
歩道のダンボールの中は
花首だけにしてきれいに並べられた
美しい赤紫の蘭の花や
これも美しく輪をかくように並べられた
夜目にも白く薫り高いジャスミンの花である

そういえばジャスミンの花を
ホテルに飾ろうと思っていたんだっけ

そう思いながら通り過ぎかけたその時

「この人がチートンですよ!」

唐突に黄さんの声がした

「ハヌルさん Tさん さぁ中に入ってください」

訳がわからずぼーっとした私を
黄さんが さあさあ!と追い立てるように
店の入り口へと押しやった
一体どういうことなのか
私は助けを求めるようにTさんを見やると
Tさんは上を見上げながら
なんともいえない奇妙な表情で

「やだ 社長と同じ名前じゃない」

と ぼそっとつぶやいた
彼女の言葉の意味を図りかねて
私はその視線の先を追った
見上げればそこには
極彩色の飾り物の中にひとつの扁額が掲げられていた
そしてそこにはこう書いてあったのだ

『正義宮』

そう 私が店だと思い込んでいたこの場所こそ
天公の廟である正義宮であった
そしてその名前は
Tさんが勤務する会社の社長の名前と
同じものだったのである

+++++++++++(まだまだ続くタンキー編)