ときおり 過去の呼び声に心が惑う
私はとても弱い人間で
腐り果て腐臭を放つ中から
うっすらと見える美しい幻を
時折掴みたくなる
瞬間に湧き上がるその衝動の強さ
まるで鋭い針で一突きにされたように
心の深い奥底まで届く痛み
それが幻だと知っていて
それでももう一度
その幻惑にすがりたいと思う自分が
どこかに隠れ住んでいる
依存の甘さは
麻薬以上で
人の心をなんと強く縛り上げるのだろうか
それでも その快楽のスイッチを
私は自ら壊そうとしている
そう この過去の呼び声は
ただのフラッシュバックなのだ
依存を断つために
新たな依存先を探してしまう
寂しさを埋めるために誰かに電話をしてしまう
気分はまるで つながれたアンドロメダだ
本当はそんなきれいなものじゃないのに
自己憐憫はすべてをドラマに仕立て上げる
改めて思う
ひとりで立つこと
自分の荷物は自分で背負えるだけしかもてない
私は自分に甘い
ほっておけば どれだけでも甘くなる
このようなときにこそ実感できる
まさに台湾のタンキーが告げたように
私の家は私の廟であり
私の生活は私にとっての修行であり修養であるのだ
そんな大げさな書き方は
どうにも恥ずかしいけれど
きっと私は どこかでどれだけ肉体的苦行を重ねたところで
何も変われはしないのだ
そういう「分かり易さ」に耽溺できるなら
いっそ私には使命があるなどという
ありがちな妄想に浸っていることだってできるはずだ
悟りは40いくつの段階があり
釈迦の弟子は何度も悟りから覚める苦しさに
自ら命を絶った
日々の生活のもたらすものの大きさを軽視してはならない
70年前のチベットの僧侶も言っているではないか
生活の日々が祈りであると
そう「祈り」とは何かを願うことではない
均衡を知り均衡を保つこと
過剰でないこと 過小でないこと
バランスを知るその行為行動が そのこころが
「祈り」なのではないかと思う
悲しみが 哀切が
心に吹き寄せても
それは私の中心にまで染み入ることはないのだ
腐臭漂う腐肉の海に
美しき蓮華が花開く
幻の虹の光は
目を眩ませるだけなのだ
その痛みすら 本当はもう
過去の痛み
乾いた傷が覚えている傷の記憶なのだと
気づかせてくださったことに
感謝して
電話の後は
少しの後悔と自己卑下と
そうしてまた少しの涙
ときにそんな夜のはなし
私はとても弱い人間で
腐り果て腐臭を放つ中から
うっすらと見える美しい幻を
時折掴みたくなる
瞬間に湧き上がるその衝動の強さ
まるで鋭い針で一突きにされたように
心の深い奥底まで届く痛み
それが幻だと知っていて
それでももう一度
その幻惑にすがりたいと思う自分が
どこかに隠れ住んでいる
依存の甘さは
麻薬以上で
人の心をなんと強く縛り上げるのだろうか
それでも その快楽のスイッチを
私は自ら壊そうとしている
そう この過去の呼び声は
ただのフラッシュバックなのだ
依存を断つために
新たな依存先を探してしまう
寂しさを埋めるために誰かに電話をしてしまう
気分はまるで つながれたアンドロメダだ
本当はそんなきれいなものじゃないのに
自己憐憫はすべてをドラマに仕立て上げる
改めて思う
ひとりで立つこと
自分の荷物は自分で背負えるだけしかもてない
私は自分に甘い
ほっておけば どれだけでも甘くなる
このようなときにこそ実感できる
まさに台湾のタンキーが告げたように
私の家は私の廟であり
私の生活は私にとっての修行であり修養であるのだ
そんな大げさな書き方は
どうにも恥ずかしいけれど
きっと私は どこかでどれだけ肉体的苦行を重ねたところで
何も変われはしないのだ
そういう「分かり易さ」に耽溺できるなら
いっそ私には使命があるなどという
ありがちな妄想に浸っていることだってできるはずだ
悟りは40いくつの段階があり
釈迦の弟子は何度も悟りから覚める苦しさに
自ら命を絶った
日々の生活のもたらすものの大きさを軽視してはならない
70年前のチベットの僧侶も言っているではないか
生活の日々が祈りであると
そう「祈り」とは何かを願うことではない
均衡を知り均衡を保つこと
過剰でないこと 過小でないこと
バランスを知るその行為行動が そのこころが
「祈り」なのではないかと思う
悲しみが 哀切が
心に吹き寄せても
それは私の中心にまで染み入ることはないのだ
腐臭漂う腐肉の海に
美しき蓮華が花開く
幻の虹の光は
目を眩ませるだけなのだ
その痛みすら 本当はもう
過去の痛み
乾いた傷が覚えている傷の記憶なのだと
気づかせてくださったことに
感謝して
電話の後は
少しの後悔と自己卑下と
そうしてまた少しの涙
ときにそんな夜のはなし