何気なく手にとった本の中に
思わぬ事柄が隠れていることがある
今日 図書館で
たまたま借りてきたこの本も
私にとって玉手箱のような一冊になった
この本の著者である永松さんの本業は
かなりのキャリアを誇るツアコンである
それもアフリカはケニアの首都ナイロビにて
日本人向けのサファリツアーなどをやっておられる方だ
そして何より驚くべき点として
彼女のご主人様は
なんとマサイ族の現役戦士なのである
いや ここはまだ驚くところではない
そう 彼女はただ奥様になったのではない
「第2夫人」になったのである
アフリカ ケニア マサイ族
その単語の羅列だけでも驚くのに
「第2夫人」である
私は目を疑った
日本人の女性が
それも私とそう変わらぬ年齢の女性が
マサイの戦士と結婚??
しかも 第2夫人???
ありえるのか??
法律はどうなんだ?
等々 瞬時に脳みそは
はてなの疑問符だらけになってしまった
アフリカの中でもケニアの首都ナイロビは
日本人駐在員も多く
日本食レストランもアフリカの中では
ずば抜けて多いほうらしい
気候もイメージとは異なり
湿度も少なく気温も平均18度と
非常に過ごしやすいところである
また電気水道ネットなど
日本で生活していたのと
さほど変わらない生活が送れることができ
またここは
アフリカを旅する日本人が
うっかりはまり込む
都会独自の淫猥さを持つ都市でもある
しかし彼女の結婚した相手はマサイだ
それも現在では少なくなった
伝統的な生活を保つマサイである
井戸もなく 電気もなく
いわゆるイメージする文明とは程遠い生活である
実際ご主人のジャクソンは
学校にも行ったことが無くもちろん文字も読めない
失礼な言い方だが
いわゆる原始人的生活であり
正直にいってその精神性を今まで私は
少し低くみていたと思う
いわゆる「田舎の人はみんな純朴」とか
「赤ちゃんや子供はみな天使」などという
くだらないステレオタイプの考え方と
対して違わない「偏見」と似たような
思い込み意識が
このマサイという部族に対して
この心のどこかに持っていたのだと思う
ところがである
読み進めていくうちに
私は常日ごろ私が持っている
「価値観というものへの疑問」を
さらに大きくするような内容に出くわした
それは彼らの死に対する意識について
書かれている部分だった
マサイの人々は死に対して
明らかに無感覚のようだった
肉体が停止することが死であって
死んだ瞬間からその肉体は
もはやどうでも良いものになるのだ
であるからこそ
その亡骸はかつてはそのまま適当に
草原などへ放置してあったらしい
現在は一応穴を掘り
そこへ埋葬はするのだが
それも埋葬というよりは
ただ「埋める」というもので
勿論墓標も作りはしないし
それどころか結局何処に埋めたのかも
すぐに忘れてしまうようだ
実際この本の中でも
夫のジェイソンの実の父親が亡くなるのだが
臨終に立ち会えなかった妻の真紀さんが
そのお墓におまいりしたいというのを
ジェイソンは理解できないというくだりが出てくる
日本人大学生の「死とは何か?」の問いに
ジェイソンはただこう答えている
「終り。何も無い。」
この死への感覚は
もしかしたら肉体というものへの意識のありようが
私とは随分違うのではないかと思い出したのは
それこそ一夫多妻制および性についてのくだりを
読み進めていったときだ
彼らマサイの男は乳房に欲情することが無い
乳房に関心を持つのは赤ん坊と子供だけなのである
(これは明治までの日本の性意識と
少し似通っていて面白い気がする)
西洋文化の影響を受けたマサイは別として
乳房どころか肉体を露出している女性に対して
セックスアピールは一切感じないらしい
何より彼らはカップルでもキスをしない
もちろん日常的なハグもしないし
手を繋いで歩くことも
並んで歩くことすら無いようだ
ましてマサイにおいて
性器を見たり触ったりするというのは
夫婦やカップルでもまず嫌がられる行為といえる
肉体的な接触と愛情の有無は
ここでは明確に区切られている
彼らは愛とは信頼なのだと言う
そしてその信頼は
肉体の接触によりもたらされるものではなく
ひたすら精神の問題なのである
彼らは性による情感を
明確に区分しているのだ
マサイでは肉欲や妊娠というものに対して
まったく考え方が私たちと異なっている
例えば第1夫人とばかりセックスしていようが
なんだろうが そんなことはまったく気にならないし
それにより嫉妬するということもない
真紀さん自身が
第1夫人とうまくいっているのは
この概念の違いのおかげだと語っている
真紀さんにとって肉体接触は愛の証であり
第1夫人にとってそれは
なんら意味を持たないものだからだ
だからそういうところで争いにならないのである
(ましてやマサイは子供を作るため以外には
それほど性交渉を持たないらしい)
その上男も女も10台前半の若き時代は
相当自由な性を認められており
その結果妊娠しても
妊娠機能が働くということの証明となり
逆に女として優位になるようだ
そして生まれた子供もなんの隔てもなく
家族の一人として育てられ
後の結婚になんら禍根を残すものではない
生まれる 死ぬ そして肉体
この概念の違い
感覚の違い
基準の違い
自然の美を愛する日本人
自然の美は野卑であるという中国・朝鮮人
ケニア 日本 中国 朝鮮
人は文化にこんなにも左右されてしまう生き物なのだ
私はこの本を読んで
価値観を作り出すものを
もう一度見つめ直そうと思いはじめている
思わぬ事柄が隠れていることがある
今日 図書館で
たまたま借りてきたこの本も
私にとって玉手箱のような一冊になった
この本の著者である永松さんの本業は
かなりのキャリアを誇るツアコンである
それもアフリカはケニアの首都ナイロビにて
日本人向けのサファリツアーなどをやっておられる方だ
そして何より驚くべき点として
彼女のご主人様は
なんとマサイ族の現役戦士なのである
いや ここはまだ驚くところではない
そう 彼女はただ奥様になったのではない
「第2夫人」になったのである
アフリカ ケニア マサイ族
その単語の羅列だけでも驚くのに
「第2夫人」である
私は目を疑った
日本人の女性が
それも私とそう変わらぬ年齢の女性が
マサイの戦士と結婚??
しかも 第2夫人???
ありえるのか??
法律はどうなんだ?
等々 瞬時に脳みそは
はてなの疑問符だらけになってしまった
アフリカの中でもケニアの首都ナイロビは
日本人駐在員も多く
日本食レストランもアフリカの中では
ずば抜けて多いほうらしい
気候もイメージとは異なり
湿度も少なく気温も平均18度と
非常に過ごしやすいところである
また電気水道ネットなど
日本で生活していたのと
さほど変わらない生活が送れることができ
またここは
アフリカを旅する日本人が
うっかりはまり込む
都会独自の淫猥さを持つ都市でもある
しかし彼女の結婚した相手はマサイだ
それも現在では少なくなった
伝統的な生活を保つマサイである
井戸もなく 電気もなく
いわゆるイメージする文明とは程遠い生活である
実際ご主人のジャクソンは
学校にも行ったことが無くもちろん文字も読めない
失礼な言い方だが
いわゆる原始人的生活であり
正直にいってその精神性を今まで私は
少し低くみていたと思う
いわゆる「田舎の人はみんな純朴」とか
「赤ちゃんや子供はみな天使」などという
くだらないステレオタイプの考え方と
対して違わない「偏見」と似たような
思い込み意識が
このマサイという部族に対して
この心のどこかに持っていたのだと思う
ところがである
読み進めていくうちに
私は常日ごろ私が持っている
「価値観というものへの疑問」を
さらに大きくするような内容に出くわした
それは彼らの死に対する意識について
書かれている部分だった
マサイの人々は死に対して
明らかに無感覚のようだった
肉体が停止することが死であって
死んだ瞬間からその肉体は
もはやどうでも良いものになるのだ
であるからこそ
その亡骸はかつてはそのまま適当に
草原などへ放置してあったらしい
現在は一応穴を掘り
そこへ埋葬はするのだが
それも埋葬というよりは
ただ「埋める」というもので
勿論墓標も作りはしないし
それどころか結局何処に埋めたのかも
すぐに忘れてしまうようだ
実際この本の中でも
夫のジェイソンの実の父親が亡くなるのだが
臨終に立ち会えなかった妻の真紀さんが
そのお墓におまいりしたいというのを
ジェイソンは理解できないというくだりが出てくる
日本人大学生の「死とは何か?」の問いに
ジェイソンはただこう答えている
「終り。何も無い。」
この死への感覚は
もしかしたら肉体というものへの意識のありようが
私とは随分違うのではないかと思い出したのは
それこそ一夫多妻制および性についてのくだりを
読み進めていったときだ
彼らマサイの男は乳房に欲情することが無い
乳房に関心を持つのは赤ん坊と子供だけなのである
(これは明治までの日本の性意識と
少し似通っていて面白い気がする)
西洋文化の影響を受けたマサイは別として
乳房どころか肉体を露出している女性に対して
セックスアピールは一切感じないらしい
何より彼らはカップルでもキスをしない
もちろん日常的なハグもしないし
手を繋いで歩くことも
並んで歩くことすら無いようだ
ましてマサイにおいて
性器を見たり触ったりするというのは
夫婦やカップルでもまず嫌がられる行為といえる
肉体的な接触と愛情の有無は
ここでは明確に区切られている
彼らは愛とは信頼なのだと言う
そしてその信頼は
肉体の接触によりもたらされるものではなく
ひたすら精神の問題なのである
彼らは性による情感を
明確に区分しているのだ
マサイでは肉欲や妊娠というものに対して
まったく考え方が私たちと異なっている
例えば第1夫人とばかりセックスしていようが
なんだろうが そんなことはまったく気にならないし
それにより嫉妬するということもない
真紀さん自身が
第1夫人とうまくいっているのは
この概念の違いのおかげだと語っている
真紀さんにとって肉体接触は愛の証であり
第1夫人にとってそれは
なんら意味を持たないものだからだ
だからそういうところで争いにならないのである
(ましてやマサイは子供を作るため以外には
それほど性交渉を持たないらしい)
その上男も女も10台前半の若き時代は
相当自由な性を認められており
その結果妊娠しても
妊娠機能が働くということの証明となり
逆に女として優位になるようだ
そして生まれた子供もなんの隔てもなく
家族の一人として育てられ
後の結婚になんら禍根を残すものではない
生まれる 死ぬ そして肉体
この概念の違い
感覚の違い
基準の違い
自然の美を愛する日本人
自然の美は野卑であるという中国・朝鮮人
ケニア 日本 中国 朝鮮
人は文化にこんなにも左右されてしまう生き物なのだ
私はこの本を読んで
価値観を作り出すものを
もう一度見つめ直そうと思いはじめている