「曾祖母にしか見えなかった狐火のはなし。」
私は幼い頃時々
母の在所へ泊まらされていた
飛騨と美濃の境辺りの山深き洞の
道が途絶えたところに母の在所はひっそりとある
訪れるものもわずかなこの里は
夜ともなればわずかに開けた天より
まるで降るかのごとく綺羅の星々が見え
幼い私にはその輝きの大きさに
かえって怖ろしくなったほどだった
仏間に敷かれた布団に潜り込み
そっと外の様子を伺えど
障子の隙間から見えるのは
いっそ冴え冴えとした漆黒の闇
遠く近く聞こえるのは蛙の鳴き声
時折ほぉと太いような
何かの声が遠くからかすかにするたびに
口から心臓が飛び出しそうなほど
どきどきと緊張したものだ
国道沿いの家に住み
一晩中トラックの行きかう音が子守唄だった私にとって
母の在所で過ごす夜は静かすぎ
かえって全ての音が耳の中へと流れ込んで
とても眠れたものではなかった
朝日が山間に光を投げかける頃
睡眠不足の目をこすりこすり
私はお蚕部屋を覗きにいくのが好きだった
入り口のガラスの戸を横へ開くと
一気に ざああざああと音が轟く
一瞬豪雨が屋根を穿っているのかと疑うような
かなり大きいこの音は
実はお蚕さんが桑の葉を食べる音なのだ
朝まだきに摘んできた桑の葉を
小さい大きいお蚕さんたちが
一心不乱に齧るのを眺めているのは
とても楽しかったものだ
私の曾祖母にあたる おはるさが幼い頃も
やはり同じようにお蚕さんが飼われていた
頃は明治の初め
今では想像も出来ないほどに
この里は行きかう旅人でにぎわっていたが
投宿するのは行き過ぎた町と相場が決まっており
夜ともなればぱったりと
人通りは絶えて
遠くからおおおぉんと
狼の声が聞こえるばかりだったそうだ
そんな里で暮らす収入源といえば
やはり田畑と養蚕がメインであったので
人を雇う余裕のある家には
必ずお蚕小屋が作られていたらしい
お蚕小屋とはいえ
お蚕さんのシーズンは
初夏からの限られたシーズンなので
それ以外は農機具小屋であったり
縄仕事をする農作業小屋を兼ねていた
そしてそれはたいてい
母屋とは別棟として少し離れて建てられていた
在る夜ふと
幼いおはるさは目を覚ました
しばらく寝ぼけてぼおっとしていたが
やがてはっきりと頭が冴えてしまった
そっと目を開けてみても
暗闇に慣れているその目には
部屋は薄墨を刷いたようにほの暗く映る
どうやらまだまだ真夜中のようだ
布団の中で何度も何度も寝返りを打つが
どうにも眠ることができない
ついには諦めておはるさは
目が覚めたついでだと
厠へ小用を足しにいくことに決めた
そっとふすまを開け
家人を起こさぬように
おはるは土間の下駄に足を通した
この家の厠は
今でも良く田舎の古い家に在るように
庭の片隅にぽつんと建てられていたので
用をたすには下駄を履き
外へでるより仕方が無かった
幼い私が怖がるほどの
こぼれんばかりの星明りだったこの夜空に
明治の初めのこのときは
いかに月が煌々と照らしていたことだろう
蛙すらも寝静まったのか
しんと静まり返った夜更け
赤々と照る月のおかげで
おはるさには庭の様子がよく見て取れた
足音をたてぬよう
けれどそっと小走りに厠へと急ぐ
入り口の扉に手をかけたそのとき
ふと何かがおはるの目の端に映った
あれ・・・?
立ち止まり目に留まったものへ顔を向けてみる
それは庭を越え細い小道を辿った先にある
新屋のお蚕小屋だった
そのお蚕小屋の壁に穿たれた窓という窓から
煌々と明るい光ががもれていた
その灯りはまるでガス灯か何かのように
とてもまぶしく明るく光り
中では何人もの人たちが
立ち動いているのが見て取れた
あれまぁ
こんな夜中まであんなに働いて
新屋はご苦労さんやなぁ
おはるはしばらくぼおっと見ていた
小屋の中では大勢の人間が
なにやら忙しげに働いており
何をしているのだか良くはわからないのだが
恐らく縄をなったり
むしろを編んだりしているのだろうとひとり想像をした
何にせよ
あのように働くというのは
本当に感心なことだなぁと思いながら
おはるは自分の用事を思い出し
そっと厠へ入っていった
それから何度か夜中に目が覚めることが続き
おはるが厠へ立つときには
毎度あの小屋に灯りが点っていた
ところがある日の昼間
小用へ立ったおはるは気がついた
真昼間のお昼時にもかかわらず
あのお蚕小屋は
真っ暗で到底中など見えやしなかったのだ
しかもいかにも廃墟じみて古びており
もう長い間使われていないのが
一目で見て取れた
後に おはるさは
ほほと笑いながら 母にこういったという
「あれはな 多分狐やわ
ワシはほんまに狐にようけ騙されたでなぁ
なんでか知らんけども
ワシ以外だーれにも見えなんだんよ
みんなに聞いたんやけど誰もしらんて言われたわ
たわけやもんで
ワシばっか何度も騙されたんやろなぁ」
私は紅茶を飲みながら
懐かしそうに語る母の話を聞いていた
ところが話の続きを聞いているうちに
思わず私は驚きの声をあげてしまった
何故なら
母が続けたその話の続きは
そのまま私が体験したあることと
まったく同じ話だったからである
++++++++++++++続く
私は幼い頃時々
母の在所へ泊まらされていた
飛騨と美濃の境辺りの山深き洞の
道が途絶えたところに母の在所はひっそりとある
訪れるものもわずかなこの里は
夜ともなればわずかに開けた天より
まるで降るかのごとく綺羅の星々が見え
幼い私にはその輝きの大きさに
かえって怖ろしくなったほどだった
仏間に敷かれた布団に潜り込み
そっと外の様子を伺えど
障子の隙間から見えるのは
いっそ冴え冴えとした漆黒の闇
遠く近く聞こえるのは蛙の鳴き声
時折ほぉと太いような
何かの声が遠くからかすかにするたびに
口から心臓が飛び出しそうなほど
どきどきと緊張したものだ
国道沿いの家に住み
一晩中トラックの行きかう音が子守唄だった私にとって
母の在所で過ごす夜は静かすぎ
かえって全ての音が耳の中へと流れ込んで
とても眠れたものではなかった
朝日が山間に光を投げかける頃
睡眠不足の目をこすりこすり
私はお蚕部屋を覗きにいくのが好きだった
入り口のガラスの戸を横へ開くと
一気に ざああざああと音が轟く
一瞬豪雨が屋根を穿っているのかと疑うような
かなり大きいこの音は
実はお蚕さんが桑の葉を食べる音なのだ
朝まだきに摘んできた桑の葉を
小さい大きいお蚕さんたちが
一心不乱に齧るのを眺めているのは
とても楽しかったものだ
私の曾祖母にあたる おはるさが幼い頃も
やはり同じようにお蚕さんが飼われていた
頃は明治の初め
今では想像も出来ないほどに
この里は行きかう旅人でにぎわっていたが
投宿するのは行き過ぎた町と相場が決まっており
夜ともなればぱったりと
人通りは絶えて
遠くからおおおぉんと
狼の声が聞こえるばかりだったそうだ
そんな里で暮らす収入源といえば
やはり田畑と養蚕がメインであったので
人を雇う余裕のある家には
必ずお蚕小屋が作られていたらしい
お蚕小屋とはいえ
お蚕さんのシーズンは
初夏からの限られたシーズンなので
それ以外は農機具小屋であったり
縄仕事をする農作業小屋を兼ねていた
そしてそれはたいてい
母屋とは別棟として少し離れて建てられていた
在る夜ふと
幼いおはるさは目を覚ました
しばらく寝ぼけてぼおっとしていたが
やがてはっきりと頭が冴えてしまった
そっと目を開けてみても
暗闇に慣れているその目には
部屋は薄墨を刷いたようにほの暗く映る
どうやらまだまだ真夜中のようだ
布団の中で何度も何度も寝返りを打つが
どうにも眠ることができない
ついには諦めておはるさは
目が覚めたついでだと
厠へ小用を足しにいくことに決めた
そっとふすまを開け
家人を起こさぬように
おはるは土間の下駄に足を通した
この家の厠は
今でも良く田舎の古い家に在るように
庭の片隅にぽつんと建てられていたので
用をたすには下駄を履き
外へでるより仕方が無かった
幼い私が怖がるほどの
こぼれんばかりの星明りだったこの夜空に
明治の初めのこのときは
いかに月が煌々と照らしていたことだろう
蛙すらも寝静まったのか
しんと静まり返った夜更け
赤々と照る月のおかげで
おはるさには庭の様子がよく見て取れた
足音をたてぬよう
けれどそっと小走りに厠へと急ぐ
入り口の扉に手をかけたそのとき
ふと何かがおはるの目の端に映った
あれ・・・?
立ち止まり目に留まったものへ顔を向けてみる
それは庭を越え細い小道を辿った先にある
新屋のお蚕小屋だった
そのお蚕小屋の壁に穿たれた窓という窓から
煌々と明るい光ががもれていた
その灯りはまるでガス灯か何かのように
とてもまぶしく明るく光り
中では何人もの人たちが
立ち動いているのが見て取れた
あれまぁ
こんな夜中まであんなに働いて
新屋はご苦労さんやなぁ
おはるはしばらくぼおっと見ていた
小屋の中では大勢の人間が
なにやら忙しげに働いており
何をしているのだか良くはわからないのだが
恐らく縄をなったり
むしろを編んだりしているのだろうとひとり想像をした
何にせよ
あのように働くというのは
本当に感心なことだなぁと思いながら
おはるは自分の用事を思い出し
そっと厠へ入っていった
それから何度か夜中に目が覚めることが続き
おはるが厠へ立つときには
毎度あの小屋に灯りが点っていた
ところがある日の昼間
小用へ立ったおはるは気がついた
真昼間のお昼時にもかかわらず
あのお蚕小屋は
真っ暗で到底中など見えやしなかったのだ
しかもいかにも廃墟じみて古びており
もう長い間使われていないのが
一目で見て取れた
後に おはるさは
ほほと笑いながら 母にこういったという
「あれはな 多分狐やわ
ワシはほんまに狐にようけ騙されたでなぁ
なんでか知らんけども
ワシ以外だーれにも見えなんだんよ
みんなに聞いたんやけど誰もしらんて言われたわ
たわけやもんで
ワシばっか何度も騙されたんやろなぁ」
私は紅茶を飲みながら
懐かしそうに語る母の話を聞いていた
ところが話の続きを聞いているうちに
思わず私は驚きの声をあげてしまった
何故なら
母が続けたその話の続きは
そのまま私が体験したあることと
まったく同じ話だったからである
++++++++++++++続く