昨日はある方々に会いに名古屋まで行ってきた
帰ってきたのが深夜近かったことと
普段とちょっと違っていたのでどうやらかなり疲れたらしく
今日は一日寝呆けて済んでしまった
昨日のことはまた 明日にでもアップする予定なので
誰に会ってきたのかは
明日のブログをお待ちいただくことにして
今夜は 最近読んだ本について書くことにしよう

上に並べた他にもいろいろ読んだのだけど
タイトルを忘れてしまったものが多いのでとりあえず
昨日とおとついで読んだものを並べてみた
こうやって並べてみると
私の中のテーマは「愛」だったのかもしれないなぁと思う

五木寛之著の「神の発見」は
五木氏とカトリックの森一弘司教による
対談をメインとした本である
私はカトリックについてあまりに寡聞で
この森司教のことも何も知らなかったのだが
この方はかなり言語と字義にこだわるお方のようだ
そしてそのこだわりの方向が
図々しくも割と私が思う方向と近しい気がして
なんとなく今度は
この方の著作を読んでみたいなぁと思わせられた

例えば聖書の創世記の冒頭は
こんな言葉ではじまっている

「地は混沌であった」

これは元々聖書の書かれたヘブライ語では

「ワボーフー・トーフー」

なのだという
そしてこの意味を訳すと

「無秩序・廃墟のようであった」

なのだそうだ
これは紀元前6世紀のバビロンの捕集時代において
村や町が壊滅的に破壊されて
廃墟のようになったとき
その状態を指してこの
「ワボーフー・トーフー」と表現されており
しかもこの時代にその言葉が
頻繁に使用されていたことから導き出した意見のようだ
つまりこの創世記の一節は
廃墟のような状態から神が世界を作り上げたと
そう語っているのである
「混沌」と「廃墟のような」では
かなり受けるイメージや
ニュアンスが変わってくる気がする
この世の初めは廃墟のようであり
人はその廃墟の中から
誕生したことになるのだから

そうするとこの後で神がアダムを作るとき
土くれで作ったとされるのも
今まで私が抱いていたイメージとは
随分違うものになる
廃墟のような場所の土くれとは
私にはまるで北斗のケンか昔の西部劇のような
枯れて乾いた土地を思わせられる
今までは混沌という言葉に対して
もっと溶鉱炉のようなイメージがあったのだが

また有名な
「悔い改めなさい」という言葉がある
一般にキリスト教に詳しくない私たちが
キリスト教をイメージする際に
ぱっとイメージされる言葉ではないだろうか?
これはギリシャ語で「メタノイア」という言葉で
それを訳したのが先ほどのおなじみの言葉になる
しかしこれも本来のヘブライの意味へ戻せば

「ノイヤ=心」
「メタ=超える」

でありこれは
「未熟で欠点だらけの自分の心を
日々克服していく」
という意味合いになってくる
決して罪からの悔い改めではないのだ

またヘブライ語での「悔い改め」は
「シューブ」という言葉であり
これの意味も私たちの思う
懺悔の様相を含んではいない
「シューブ」とはすなわち
「神に顔を向ける」という意味であり
「神に背中を向け神を無視した生き方を
転換しなさい」
という随分ニュアンスの異なる言葉なのである
ましてや「愛」についてとなると
ヘブライ語の意味合いから
とんでもない方向へ転換していっている

これは何故なのか

それは本来
ヘブライ語で書かれていたものが
ギリシャ語に翻訳される際にまずそこに
ギリシャ的エッセンスを盛り込み
言語を変換した上で淘汰したことが上げられる
そしてその変換されたギリシャ語版を元にして
さらに伝播していく中でそれぞれの民族や
それぞれの言語により
独自のニュアンスなどを付加し
そして削っていくうちに解釈も様々に変化し
ヘブライ語で書かれた原典とは
私からみれば相当へだったものへ感じる現在へと
変身を遂げていっのであろう

同じことはもちろん仏教などにも言える
元来インドで興った仏教も
その仏典はチベットや中国朝鮮などを経由するうちに
音訳意訳など繰り返し
それぞれのものを吸着し
変化を遂げていったのであるから
そしてそれにより各派各宗が誕生していった

聖書には
「はじめに言ありき」という一節がある
ヘブライ語で「言」は「ダバール」
この言葉の元々の意味合いで見るなら
この言葉はとても私には理解がしやすくなる
「ダバール」とは

「内側から噴出してくる生命」

なんと美しい言葉なのだろう
なんと美しい情景なのであろう
眩きしぶきは黄金色であり
時に虹色に時に白金に輝いて
枯れた土くれから生み出された私たちの
目から 鼻から 口から 
いや全身の穴という穴全てから溢れ出て
そしてやがて空の高みへ昇りゆく
それはまた 雨のように
私たちの頭上へと降り注ぎ
そしてまた天へと帰っていく
これが何なのか
私には分からない
でもこれがきっと
これはきっと・・・


時に読書は物知らずな私に
いろいろな知識を知らせてくれる
この著者の五木氏も幼い時代を平壌にて過ごし
その後内地へ引き上げてこられたのだという
仏教徒であられる五木氏と
カトリック司教の森氏の対談は
私にはとても楽しい読み物だった
(もちろん他の本もオススメです)



はじめに言があった
言は神と共にあった
言は神であった (聖書より)