営業を担当する従業員が退社して数か月後,勤務していた会社に対して内容証明を送り,残業代の請求をしてきたという事案。
以前から面識のあった専務の紹介を受け,社長が相談に来た。
社長は,内容証明をにぎりしめ,怒りつづける。
「彼は,私たちと心をあわせて一生懸命,がんばってきたんですよ。人って,こんなにも簡単に裏切るんですか?しかもあいつは,退社する前にライバル会社にも出入りして,こっちの情報を漏らしていたらしいんです。許せないです」
「わかりました。社長。まず,お願いした書類を見ながら,お話を伺いましょう」
この場合必要なのは,就業規則,賃金規定,賃金台帳,給与明細,タイムカード等々。
「就業規則はありますか?」
「あります,持ってきました。」
拝見すると,やはりこの会社の実態にまったく合致していない。
基本的に残業を発生させない仕組みは,まずは就業規則にある。営業職が多数いる会社では,事業外みなし労働について規定は設けておくべきだ。
「賃金規定と賃金台帳はありますか?」
「いや,その実は,,,」
社長は言葉を濁した。作成していないのだ。
「では,給与明細をみせてください。」
「はい,どうぞ」
これはきちんとあった。基本給が高い。
交通費,報奨金などはあるが,時間外手当の項目がない。
「時間外の項目がありませんね。これはどうしたのですか。」
「はい,人を時間で縛るのは嫌いなんです。だから社員ががんばった分は,この報奨金でカバーしています。これは,売上に応じて支給しているんです。これがあるから残業代は払わなくていいはずです。」
「社長,そのような考えもあり得ますが,少なくとも,就業規則は社長の考え方どおりではないようです。タイムカードはありますか?」
「ありません」
これは困った。勤怠管理がまるでできていない。
残業代請求の裁判では,証拠は基本的にタイムカードである。また,就業前にする掃除やメールチェックなども,労働時間に算入されてしまう。裁判所は,タイムカードの打刻時刻の前後30分を労働時間に算入して考える傾向が強い。
相手方の内容証明を見ると,会社の労働時間は9時から18時まで,休憩は1時間。
相手の主張が正しいとすれば,一日当たり3時間近い時間外手当が発生している。相手方の請求額は300万円を超えている。
電卓をたたく,おおむね1カ月で12万円もの時間外手当が発生し,2年分で280万円ほどの残業代が発生しているはずである。
「社長,まず現実問題として,この程度の残業代を支払う可能性があります。」
「そんな,,,。私は,報奨金でしっかり払っているんですよ。」
「社長,残念ですが,報奨金は報奨金です。それと残業代とは無関係です。」
正直,なんとかしてやりたい。社長がこういった会社をしたいという時,就業規則を作成した社労士の先生はきちんとアドバイスをしなかったのだろうか。
取引先や社員とぶつかりながら,会社の業績を死にもの狂いで上げてきた社長に対し,腋が甘いと言えば,そのとおりであるが,それは酷である。
もう一度,給与明細を見る。
すると,この従業員と会社の営業所が,同じ市内にも関わらず,交通費が高いことに気が付いた。
「社長,交通費がだいぶ高いですね。これは何か理由があるのですか?」
「ええ,彼だけが,自動車通勤なのです。」
「すると,社長,この中に,駐車場代が含まれているということですか?」
「違います。会社の敷地に停めてもらっています。駐車場代はもらっていません」
「すると,彼は,自家用車で営業しているのですか?」
「いえ,それはしていません。営業は社用車か,電車ですね。電車の方が多いですが。」
「電車の交通費は,給料と同時に清算ですか?」
「だいたい1週間ごとに締めて,週明けに現金で支払っています。」
「社長,彼が乗っていた車種を教えてください」
この車種の燃費を調べ,この従業員の住所と営業所までの距離を調べた。
バタバタとパソコンと電卓をたたいている私を怪訝な顔で見つめる社長に対し,私は言った。
「社長,面白いことになるかもしれません。まず,残業代の支払に応じない旨の内容証明を送付しましょう。それからお願いしたいことがあります。」
続きは,次週。