人気blogランキングは? 昨12月の初め、ほぼ50年ぶりに我が母校の教室に還った。
貝原良治会長 デニムを生産して世界的に知られるカイハラ株式会社の貝原良治会長のお話を、本部14号館201教室で聞くことができたのだ。
 因みに、私は今、会長と同じ備後に住んでいて、有り難いご縁をいただいた。ジャパン・デニム
  中小企業庁のTV番組(企画・構成を担当)を書いていた頃なら、大いに興味をそそられる取材であったろうが、「備後絣からジャパン・デニムへ~カイハラの変遷と物作りの考え方~」と題された講演が、どのように今の私をinspireするものなのか、手前味噌の勝手な話だけれど、正直、とても興味があった。
 ところで、「教室での勉強は50年ぶり」…なのだが、それでも、新目白を通って、都心へ向かうときにリーガルロイヤルホテル東京を右手に見ながら、「早稲田の杜」の広がりをチラリと見やることはあった。
 いや、たった一度、サークルの同窓会に出席した折、なんだかキャンパスを横切ったおぼろげな記憶はあるが、まァ確かに、本格的に足を踏み入れることは、ついぞなかった。
 70年安保に向けてキャンパスが騒々しかった頃の私は、初めて早稲田に入ってきた機動隊に捕まったり、サークル室のある1号館の最上階のベランダから甍を伝わり屋根に座り込んで世間を眺めていたり、ジャズ喫茶( FOUR BEATSだったか)に入り浸ったり、雀荘(「みどり荘」)に通ったり、ビリヤードに現をぬかしたり、ともかく文学部の学生然とはしていた。
 で、学生の本文として学問に勤しんでいたかどうかは、ちょいと疑問だけれど、卒論を半年遅れで提出し、就職向けのご立派な成績で?卒業したようではあった。
 しかし、つらつらふり返ってみるに、ここを出たということが、我が人生にマイナスはともかくプラスに作用したなんてことがあったかどうか…まッ、それも本人の能力と努力次第ではあったのだが…。
早稲田大学 そんな私の記憶の中に浮かんでくる70年代の早稲田を、小雨そぼつ大隈講堂や演劇博物館、図書館…高田牧舎、早稲田小劇場、穴八幡などに…歩きながら重ねてみるのだけれど…。
 とにもかくにも、懐かしくもほろ苦い早稲田への帰還であったが、2000年代の初めに日本繊維新聞に「ファッショントーク」というエッセイ風のものを書いていて、当時のことや「ジーンズ」にふれた、ちょいとおもしろいのがあった。
 そこで、私自身も二重の思い出に浸りながら、そのまま手を加えることなく書き写してみようなどと、今、目論んでいる。

『自己暗示とパフォーマンスの男服』
 ☆ 自らを鼓舞する服
 いかにも「○○らしく見える装い」というのがある。ユニフォームを見れば、着用している人についての周辺情報は、いともたやすく読みとれる。
 ところが、営業マンとなると話は別だ。
 商談を成功させるためには、TPOにふさわしいことは前提として、オーソドックスな個性や自己主張を控えた服装が好ましいことが多い。
 私事であるが、長年どっぷりと浸かり、中性脂肪とコレステロールを体内に貯め込んできた時間が不規則な映像の世界では、一般企業や職種よりも自己アピールがモノを言う。
 そこでは、顔色を元気に見せ、勢いをアピールするのに、服装は重要な役割を果たす。
 また時には、プロデューサーやディレクターに間違えられないよう放送作家モードの漂う「装い」を心がけながら、脚本や企画のアピールと己の主張までしなければならない。
 新番組を立ち上げるための企画会議には、徹夜で七転八倒しながら一滴も残さず絞り出した知恵と企画書を抱えて、いかにも旬の作家の風体で、さっそうと大股で出向くこともある。
 はたから見たら、まるで家中のワードロープをひっくり返して着飾ってきたリサイクルショップか、ブランドの見本市か?(相手方も手強く、こんなコケオドシで一目おいてくれるはずのものでもないが…)
 にもかかわらず、「オレは筆一本でこんなドえらい企画を打ち出したのだ。どうだ、この男ぶりに文句はあるまい!」などと自己暗示をかけて自らを鼓舞するのである。
 つまり、随所にスポンサーを喜ばせる口説き文句を効かせながら、自分なりのイメージトレーニングをしていたようなわけで、その日のおしゃれが上手くいくと、プロデューサーやディレクターへの説得力もパワーがみなぎる。
 気分の良いおしゃれができた日は、「ごり押し」のような強気の提案にすら、幸運の女神が微笑んでくれ、結果、視聴率まで不思議と取れてしまうなどということがあった。
 それはまるで己をその気にさせ、相手もまた陶酔させてしまう催眠空間を演出するようなものだ。(有名ブランドのデザイナーに、魂を吸い取られた夢見心地の純な乙女のごとく)
 職業をメッセージしたり、自分自身を奮い立たせる服は、今世紀も健在だ。
 ☆ ジーンズの思い出
JULIYA KODAMA 話は、70年安保闘争の頃にさかのぼるが、当時、キャンパスでの一番人気は、色あせたTシャツにヨレヨレのジーンズ、そして裸足で下駄履きというのが定番だった。(中村雅俊のジーンズとゲッタに憧れたのか?)
 方や、ヘルメットに運動靴、タオルで覆面をした、熱き血潮の学生運動家も学内に沢山たむろしていた。
 まだ店の形態として、ジーンズショップなどと呼ばれた類は、ほとんどなかったから、お気に入りのジーンズをゲットしたいがために、さんざ探し回った。
 帰省するたびに、「そんな薄汚いTシャツとズボンで出歩かないでちょうだい。隣近所の話のタネになるから…」とお袋に泣きつかれた。当時の親の大半は、息子が大学を無事に卒業して、安定した企業に就職して欲しいと願っていたから無理もない。
 「とめてくれるなおっかさん」という流行語を生み出すほど、大学紛争が激化する一方で、68年のGNP(国民総生産)は自由世界第二位となり、世はまさに昭和元禄花盛りといったところであった。
 ハレンチ、サイケデリック、ゲバルトにノンポリなどの用語が登場し、新宿西口地下広場の反戦フォーク集会では、機動隊が出動してガス弾が使われた。
 テレビからは「あっと驚くタメゴロー!」「ニャロメ」、「やったぜ、べービー」、「オー、モーレツ!」とやたら威勢の良い言葉が耳をつんざいていた。
 大阪での万博開幕がきっかけとなって、レジャーブームが巻き起こったものの、赤軍派学生がよど号をハイジャックし、三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊で自決するなど不穏な事件も起こった。
 夢と自由と不安が交錯した大波のまっただ中に人々はいた。
 時を経て、社会人となった若者は、Tシャツやジーンズを既成路線の「背広」に着替えて、フォークロアやボヘミアンの世界から、優等生よろしく企業に順応していった。
 流行は、時代のエッセンスを加味しながら必ず繰り返される。
 若い頃からジーンズをこよなく愛してきた、フリーカラー族(重衣料とカジュアルの双方を着る職業)を自認する私にとって、このところの体形の衰えはまさに脅威である!
その上、年甲斐もなくブリーフ愛好家で、Tシャツとジーンズを、常日頃、素肌にじかに着るには、腹のたるみと密度の低くなった頭頂部は、余ほど表情筋と気持ちを引き締めないと、カジュアル着との相性が悪くなってしまっている。
 折り山線を気にせずにすむ綾織りのジーンズは、社会のルールに身をゆだねた男たちの、しがらみや窮屈さを解き放ってくれる。
 アダルト層がジーンズを装うとなると、生き様や、心理状態までも露見してしまう危険性もはらんでくる。
 若者は、その瑞々しさゆえか、誰もがそれなりにジーンズが似合う。
 今まで出会ったジーンズの似合う大人の男は、自分の生き様に自信がありそうな人が多かった。
 五十路の半ばにさしかかってきた団塊世代の大半は、人生のイメージデザインが確立される頃である。
 「着ることはできても、着こなすことは難しい」ということが、五十路をすぎて身にしみてきた。
 ☆ 粋な背広姿
 そんなわけで、やはり背広は、何かにつけ重宝だ。
 夏本番になると、仕事先でのミーティングには、ブルゾンとパンツ(チノパンツやワッシャーなど)を愛用し、鬼のスポンサーに会うときには、汗まみれの身体にむち打って、テーラードのセットアップで出かけることにしている。
 かつて、お金持ちの伊達男たちは、白い麻のスーツ(同素材・同デザイン)を何着も用意したという。一日に何回も着替えをして、少しでもシワや汗じみが目立たないよう涙ぐましい努力をしながら、涼しい顔で人前に現れた。
 クーラーの普及していない時代のエピソードだ。
 ひと頃、「カジュアルフライデー」などのキャンペーンが市場を席巻した。
 考えてみれば、そのヒントソースとなったアメリカは、元々カジュアル大国である。三億人近い人口を抱えているこの国では、異民族が各々のシチュエーションの中で、身の丈にあったおしゃれを楽しんできた。
 フォーマル以外では、着こなしのルールや垣根を飛び越えて、もっと自由気ままなパフォーマンス服(価値表現・伝達の服)を、市場に放出してはどうだろうか?
 ワイドショーを手がけていた頃、映画監督の篠田正浩さんや、俳優の岡田眞澄さんのスキのないおしゃれにカルチャーショックを受けた。できる男は、顔も着こなしももハンサムだ!

【PHOTO:JULIYA KODAMA】
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