「突然、お電話して申し訳ありませんが、作家の津田三郎さんをご存じですか?」
昨年11月11日午後、電話の主は、某TV局のプロデューサー某と名のった。
…今日、京都東山区で民家の火事があり、その住人と思われる男女の遺体が敷地内で発見された。樋口雄介さん、作家の津田三郎さんですが…ご存知ですね?
えッ!…と言ったまま、私は、津田さんと民家の火事をなかなか結びつけることができないまま、電話の声を聞きながら、ほとんど慌てふためいた体で、デスクの引き出しから、昨年もらったはずの年賀状を探し出し、彼の住所を、電話相手に向かって読み上げていた。…間違いなかった。
それでも、まさかあの津田さんが、そんな風に死を迎えようとは思えなかった。それに、目の前にある年賀状に、「昨年は林(秀彦)先生の訃報に驚きました」と一筆添えてある、丸く特徴のある筆跡が、彼自身の死を、自ら否定するように見える。
プロデューサー某は、ついては、ブログから津田さんの写真を使わせていただきたいのですが?…と、電話した目的をあくまで果たそうとする口調だ。出版社にも当たったのだが、手に入らないという。私は、あの写真は随分前のもの(「文藝春秋」誌上で募った映像化を目的とした懸賞小説$1000賞を、津田さんが授賞した)だと説明したが、それでもよいということなので、承諾した(結局、使わなかったらしい…?)。
産経新聞は、ネットで次のように報じている。
『京都・東山の民家火災、死亡の男性、歴史作家か』
京都市東山区今熊野日吉町の民家で11日朝起きた火災で、敷地内の庭から遺体で見つかった男女2人のうち男性は、津田三郎のペンネームで『京都・近江 戦国時代をゆく』(淡交社)などの作品を執筆している歴史作家とみられることが分かった。
民家火災は11日午前9時50分ごろ発生。この家に住む樋口雄介さん(78)と妻の光江さん(70)とみられる男女の遺体が見つかった。$1000賞授賞式にて 津田三郎氏(左)林秀彦氏(右)
津田三郎…『雑兵物語』(1980年 創芸社)は、オフィス$1000という事務所にいた私が担当し、$1000賞(この賞は、新人の清新な才能を発掘し、彼らのために新しい道を開き、現代の出版、TV、映画界に新風を吹き込もうと念願して、オフィス$1000によって創設されたものである。作品の選考は五人の会の窪田篤人、西条道彦、高橋玄洋、津田幸於、林秀彦の各氏により行われた)の受賞記念出版として刊行したものだった。
津田さんとは、それ以来のつきあいである。
『考証・切支丹が来た島』(1981 現代書館)を上梓する数ヶ月前のことだった。
「カメラをお借りしたいのですが?」と、神津島に取材に出かける旅支度で、私の事務所を訪ねて来られたことがあった。
退路を断って作家生活に入られたことを裏付けられたような具合で、
その時、彼の「おたあジュリア(徳川家康のキリスト教禁止令に背いたために神津島に流刑。殉教の一生を送った韓国人女性キリシタン)」論を、しばし聞くことになった。
その熱い思いに、出版の暁には、番組企画をたてることを約し、追いかけるように、私も自ら、神津島の「ジュリア祭」を取材したりもした。
確か、そのころ埼玉の蕨市に住まわれていたと記憶しているが、何年かたって、「念願の京都に引っ越しました」と、うれしそうな便りが届いた。
それからはさらに、「秀吉」ものを中心に据え、造詣の深さに丹念なフィールドワークが相まって、筆がいきいきと踊っているような、何冊もの著作をものにされた。
ところで、出版の都度、近況報告の便りを添えて、真新しい著書を欠かさず贈ってくださったことに、私は、熱心な一読者としての返礼しかできないでいた。
「京都に来てください。会いたいですね」…電話で話すと、そういつも言っていた津田さんだが、驚いてしまうことに、私はもう30年以上も会っていなかったのだ。会おうとすれば、決して会えなかったわけではなかった。
いや、それよりも、津田さんと一緒に京の街を歩くことを楽しみに待っていたような気がする。…きっと、なつかしいはにかんだような笑いを浮かべ、こう言ったに違いない。
「こうして、あなたを連れ歩くことを信じてましたよ、私の京都を、話しながらね…」
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