唐突だが、誰しも、衣服を取り去って生まれたままの姿になってしまえば、形や大きさや体毛の様子こそ異なるけれど、まァ大まかなくくりとは思うが同種の「ヒト」で、見た目、分け隔て無く「身ひとつの存在」になってしまうのは、なぜか愉快だ。
きっと、その姿があっけらかんとしていて、「生」や「死」にもっとも近い時の状態だからだろうか…「生まれたときも裸、墓場にだって何を持って行けるわけじゃなし」ってのに…。
とはいうものの、この「存在」、この世にふたつとして、ことごとくのイクオールが無いというのも不思議と言えば不思議で、併せてその「中身」も唯一無二であることを認めざるを得ないのも事実で、このあたりは、きっと“神”の配剤、“神”の領域なのだろう。
またあえて言うなら、「ヒト」は、今ここに存在することによって、取りまくすべてのものを存在せしめているわけだから、ちょっと恐いのは、例えば、私が「まわりの存在=宇宙」を分かるのと、全く同じように、他の人もまた、取り巻く外界を分かっているのかどうかが全く「不確か」であることの「存在の不安」である。
「他人様のことなど知ったこっちゃネェ」と言い放ってしまいたくなるのは、とどのつまり、このようなどうしようもない「諦観」が誰にでもあるからなのだろう。
それは、私が「生きてきた痕跡」をできるだけ残すまいとする誘惑から逃れがたいのと裏腹の関係があるように思う。
話はとても飛躍するが、今朝(7/9付)の「読売」の「編集手帳」に、ビートたけしさんの自伝エッセーから「腹減ってんのは見えネェけど、どんな服きてるかってのはすぐわかるぜ」という言葉を引用していたが、それには、見栄を張ることで、やがてそれを凌駕していった、「芸」と「芸人」としてのありようがみえる。
彼と同時代のテレビの世界にいた私にも、確かにそんな風なところがあって、「どんな服きてるか」という「ファッション」は、生業とした「放送作家」がよって立つ重要なエレメントなんてとこがあった。
私の場合は、上手い具合に、プロフェッショナルなスタイリストが身近にいて、手を変え品を変え著名インポートブランドは言うに及ばず、次から次へと様々にコーディネイトして「どんな服」に見合うように着ることができたのは幸いだった。
おかげで、「伊達男」と、憧れと羨望、皮肉と軽蔑etc.をこめて、とりあえずは一目置かれるようになったらしい私は、「おしゃれ」を楽しめるようにもなった。
ちょっと恐いのは、すっかり「ファッションキャリア」を磨き上げてきた今の人々で、俎上の者が、身につけているファッションから「人となりを演繹する術」を、すっかり自らの手に入れていたりすることなのだが…。
で、そんな私が、最近はどうだろう…、身につけるアクセサリーや時計などはもちろん、衣服にまで、ある種の「着心地の悪さ」や「嫌悪感?」を感じるようになっている。
それは、ゴテゴテに飾ることから、次第にシンプルなファッションに流れてきた、私のファッション史のプロセスに連なるものとは、明らかに違っている…。
言ってみれば、「存在」としての「ヒト」を、一つまた一つと被い隠していく「行為」…アダムとイヴが、最も欲望や心の動きを表象する所を被ったように…から、やがて、個の役割や地位、主張や気持ちや感情の延長線上に、今、私たちがとらえるところの「ファッション」が創造されていった過程を、強引に逆回転させ、まるでいっきに「先祖還り」してしまったような具合なのだ。
すると、「わが身ひとつの存在」が、えも言われぬほどに心地いいのだ…これって、やっぱり死期が近いのだろうか…。
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