年賀状を書くのがきっと好きなのだろう。
小学生の頃、図画工作の時間に版画を習うと、さっそくかなり凝ったものを何十枚も刷り上げ、友だちや担任の先生はもちろん校長先生や、ちょっと気になる女の子に出したりしていたのをよく覚えている。返事を待ち焦がれる気持ちの中には、相手がどれほど私のことを思っているのかを知りたいという小賢しいところがあったに違いない。
あの頃からずいぶんと経っているのに、ちょっとそれに似たものが、未だ心に残っているのに、ふと気づいて「いやはや」と思う。
年賀状というのは、一度出したり、返事を書いたりすると、相手もリストにのせてくれるのか、大抵は翌年ももらうことになる。
毎年、小正月の頃、その年の年賀状を整理するのだけれど、パソコンで作るリストは、そのまま来年の宛先になる。相手にとってはちょっと迷惑なこともあるのではないかなんて思いながらも、失礼にならないようにと、そんなやりとりが結構長く続く。
つまり、仕事や友人としてのつきあいがなくなっても、年賀状は交わし、それで相手の消息を知るなんてことになるわけで、この年になると、一年の空き時間に悲しいことが起こる確率が高くなるのは必然か。
先日届いた、はてと記憶を探さなければならない女性からの手紙は、そんな悲しい便りだった。
「実は何とお伝えすればよいか…言葉が見つかりません。 夫・柳健二は昨年4月20日、くも膜下出血のため急逝しました。…彼にとっては短かったけれど充実したカメラマン人生だったと近頃では思えるようになりました。(原文ママ)」
不覚にも、私は彼に「極楽ノー天気」な年賀状を出してしまっていた。友人としての私を思いやる夫人からの心ある文章に、何とひどいことをしたのか、哀しみの上塗りもいいとこだ…。
90年代前後、柳カメラマンを指名して、よく海外取材に出かけていた。
香港、バンコク、パリ、ニューヨークと地球を一周した外務省企画番組も彼と一緒だった。
ジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポー、ユン・ピョウを中心に香港映画事情を探ったのも彼とだった。
彼のカメラがなければ、私の欲しい「絵」もなく、それらの番組も、当然のことながら成立しなかった。
会えば必ず、ちょっとはにかんだようにも見えるニヤリとした表情で、私の名を呼び「企画」を催促してくれたものだ。
長く会わないでいたわけで、彼の「不在」も、私の中ではあの頃の延長線上で確かに彼は生きていると感じることができるというのは、手前味噌な申し訳なさの弁解なのか…。
〔PHOTO:HIROKODAMA〕
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