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 江森陽弘さん(当時、朝日新聞出版局編集委員)が『ヘンリー・ミラーのラブレター~ホキ・徳田への愛と憎しみの記録~』を講談社から上梓したのは、1982年8月のことだった。「週刊朝日」に連載したものに加筆してまとめたものである。

 江森さんの特徴のあるサインがなつかしい初版本が、今、私の手元に開かれている。

 「ヘンリー・ミラーの大きな特質は、純真無垢なやわらかい心と、強い認識力である。この二つが、彼の人生の最後の恋、ホキ・徳田へのみずみずしい恋情において、余すところなく現れている。」…“こしまき”に書かれた、吉行淳之介さんの推薦文である。

 「あとがき」に、江森さんはこう書き始めている。

 「ホキ・徳田と初めて会ったのは二年前である。『週刊朝日』の“女が迫る”という対談であった。対談のあと、ヘンリー・ミラーの話になった。手紙を書くのが好きなヘンリー・ミラーのことだ。さぞかし、ホキ・徳田へ熱烈なラブレターを送り続けたに違いない。念のために聞いてみると、三百通ほどあるという。その手紙を公開してほしい、と彼女に伝えてから『週刊朝日』に連載するまで一年以上かかった。…」

ホキ徳田  実は、こう書かれた時すでに、私は「ヘンリーからの手紙があるんだけど、どう?」と、ホキに言われ、分厚い「手紙」のコピーを手渡されていた。

 ヘンリ・ミラーの「アナイス・ニンへの手紙」は、よく知られたところで、「これは、大変なものを預かった…ある種の覚悟をしているんだろうな」と、踊ろうとする好奇心を押さえることができなかったが、心はなぜか重かった。

 ヘンリー・ミラーの手紙がいかなるものかは、私なりに推測できたからである。

 「ちょっとしたメモだとか、ポストカードやら、まだ他に何だかおもしろいものが、家にはいっぱいあるけど…」

 この前後、LAに“パブクラブHOKI”を開店したばかりのホキは、頻繁に東京に戻ってきては、テレビや雑誌、はたまた“ヘンリー・ミラー展”などの仕事を忙しくこなし、私もLAに行ったりして「不思議な交流」が始まっていた。                                                                        

   「ヘンリー・ミラー展」の会場で(池袋西武)         ニューオータニから“パブクラブHOKI”のあるウェラコートを俯瞰する

LA  本人は、芸能活動をリタイアし、実業家に転身するつもりであったようだが、回りはそれを許さなかったようだ。

 ヘンリー・ミラーの最後の妻として、彼の亡き後、何らかの遺産がころがりこんできたと世間は見ていたようだけれど、私の見るところ、件の「手紙」と「絵」ぐらいしか手にしたものはなかったようだ。

 ある日、「ちょっとつきあいなさいヨ」といって、東京駅から電車に揺られて海の見える小さな港町を二人で訪れたことがある。

 いつもこんな風に何事も決めるのが彼女のスタイルだったけれど、その日は誰かに会うのが目的だったようで、彼女が用件をかたづける数時間、私はその町をブラブラしながら待つことになった。…どうやら、LAの店に新たな投資を依頼するための話をしたようだった…。

パブクラブHOKI  パブクラブHOKIを訪れた 太地喜和子と坂本スミ子

 当時、放送作家として、番組で様々な有名人や文化人などに会ってはいたが、長いドキュメンタリーなどを手がけた場合は別として、それは仕事以外のなんでもないものだ。けれど、ホキといると、毎日がハプニングの連続で、普通ではあり得ない刺激的な出会いがあった。

 江森さんからの話を聞いたのは、“女が迫る”で、彼女がリクエストした対談相手(靉嘔・半村良・ジョージ秋山)に次々と会ってとてもハイなときであった。

 どんな風に、私を紹介したのかは知らないけれど、「今、ここにいるから話してみてヨ」と、電話を代わられた相手が、江森さんだった。

 正直言って、しがない放送作家から、“筆”で食っていけるようになるかもしれないと、ちょっとした色気もわき起こらなかったなどと言うと嘘になる。

 様々な企画を、それなりに思案していたところだったが、すでに「聞き書き」の名手として名前の知れわたっていた江森陽弘さんを前にして、私の出る幕などないと観念するのにさほどの時間はかからなかった。

 ホキに「江森さんなら言うことないんじゃない…」と伝えた後、スケジュールはトントン拍子で決まり、ホキへの聞き書きをベースに、「ヘンリー・ミラーの手紙」を織り込んでいく構成で、「週刊朝日」に連載し、後、単行本化されることになったのだ。

 ホキへのインタビューは、LAで行われることになり、1981年末の頃、先乗りした私は、江森さんの到着を待った。

 「聞き書き」をスタンバイするのが大きな役割だったけれど、ホキの手回しか、それとも、私から取り上げた「手紙」に対する江森さんのちょっとした恩情だったのか分からないが、マネージャーのように動いたり、書き上げられた原稿の清書(少々屈辱的ではあったけれど)を請け負ったりして、「週刊朝日」連載が完結するまで手伝ったのだ。

ヘンリー・ミラーのラブレター  以前こんな風に書いている。

 「江森氏も私と同じホテルに部屋をとって、棟続きのウェラコート3Fにあった“パブクラブHOKI”の麻雀部屋が、インタビューの場となった。私は、ホキと江森さんの間に入って、なんとも居心地の良いコーディネイター役に自らを任じていた」というのが、意外と的を射た当時の私の気持ちだったのかもしれない。

 一週間ほど続いたこの仕事を終えた私は、しばらくLAに残り、ホキのスペイン風の家の離れに寝泊まりすることになった。

 この仕事は、ほとんどボランティアに近いものだったけれど、ホキは「ヘンリー・ミラーのラブレター」からとびっきり「ヘンリーらしい」のを選んで、私にプレゼントしてくれた…。

 (つづく)

〔PHOTO:HIROKODAMA〕

ホキ徳田のPrivate Room

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