林秀彦  1988年、暮れもおしつまった頃、シナリオの師と仰いでいた脚本家が、オーストラリアに永住すると言い出した。
 ゆかりのある者が集まった「送る会」で、彼は「これは、精神的な“亡命”です」と言葉少なに語り、培ってきた人気も仕事も財産もすべて捨て、肉親の情までも断ち切って、オーストラリアの山中に移住して行った。
 彼の名は林秀彦(34年、東京生まれ)…人気ドラマ「ただいま11人」「7人の刑事」「鳩子の海」などを書いたシナリオライターだ。祖母の林はなさんは、NHKの朝の連続ドラマ「おはなはん」のモデルである。
 当時の世相は、バブル景気が最高潮に達しようとする中で、昭和天皇のご容態が急変し、興業や広告宣伝などの自粛が相次ぎ、リクルート事件で政界に波瀾が巻き起こっていた。翌年になると、昭和は終焉を迎え、美空ひばりもこの世を去った。
 同じ頃、中国では、天安門広場で民主化を要求し、座りこ込みを続けていた学生と市民を、人民解放軍の戦車や装甲車が実力で排除したとのニュースが流れ、11月には、ベルリンの壁が崩壊した。
 林秀彦氏のオーストラリア移住は「まるで時宜を得た隠遁ではないか?」の感を抱いた仲間は、私以外にも何人かいた。
 その後も、彼の消息はとぎれとぎれに耳に入ってきたが、すでに、私にとって林氏の存在は、若き日の想い出となりつつあった。そんなある日、ふらりと入った書店の一角で、彼の本を偶然見つけた。
 曰く「ジャパン、ザ・ビューティフル~嫉妬文明への挑戦」(96年、中央公論社)…やはり「考えることと、書くことしか脳がない」と謙遜していた林氏が、オーストラリアの山中に隠遁したまま黙っているはずはなかったのだ。
 その後も、「日本を捨てて、日本を知った」(99年、草思社)「「みだら」の構造」(00年、草思社)「逃げ出すための都」(01年、創林社)「失われた日本語、失われた日本」(02年、草思社)「いやしくも日本人なら知っておくべき教養語」(04年PHP)など…年に一、二回のペースで、彼独特の視点とナイーブな切り口を持った日本人論・文明論を送り出している。
 01年には、彼の小説「生きるための情熱としての殺人」(創林社)がテレビ朝日でドラマ化された。
 かつて、ある篤志家が私財を投じて「1000$パーティ」という試みを始め、私もその事務局を手伝った。「良い原作をできるだけ忠実に映像化するためのシナリオ・オークションを映像関係者を集め千ドル(当時のレイトで12万円程度)の予算で開く」というものだった。林氏の「生きるための情熱…」は、この第一回パーティに出された作品だった。
 その後この試みは、芥川賞を取ったばかりの高橋三千綱氏が出品した「天使を誘惑」を、山口百恵、三浦友和の名コンビで映画化に漕ぎ着けたところで終わった。

無国籍テイスト


 先のパーティに颯爽(さっそう)と現れた林氏の装いは、とても衝撃的だった。他の出席者からも「ホゥッ…!」というため息とも感嘆ともつかぬ声がもれた。
 それは、緑色系のスーツ(ダブルの打ち合わせ)に、ヒールがやや高めのイタリアンブーツをはき、片手にアタッシュケースという、スクリーンから抜け出してきたようないでたちであった。その色づかいとスタイリングは、彼のがっちりとした肩巾や、鍛えられた筋肉質の身体に見事なほどしっくりと似合っていた。(ドイツやフランスで留学生活を送っていた時、アルバイトで異国の人たちに柔道を教えていた)とにかく、そんな姿を見た私は、和製アラン・ドロンなどと呼ばれていたことに頷いてしまった。
 普段の彼はと言えば、黒いタートルネックのセーターにジーンズやチノパンツのことが多かった。信濃町の家を訪ねると、セーターの腕をまくり上げ、銀髪混じりのウェーブヘアをかき上げながら、あざやかな手さばきでトランプ手品を披露してくれたり、書き始めている小説について話してくれた。そうこうしているうちに、気がつけば、林氏のお気に入りのグッズ類を、私も愛用するようになっていた。満寿屋の原稿用紙、モンブランの極太万年筆、Lettsの手帳…etc.
 それにしても、おしゃれな男の影響力はすごいものだ。
 昨今の市場でも、「歩く広告塔」戦略は生きているから、オーラのあるパーソンの起用によって、メンズ市場活性化のビジネスチャンスはあるはずだ。たとえそれが「真似しごんべぇ」と言われようが…過去の歴史を見ると偉大な画家やアーチストだって、先輩の手法を模倣してトレーニングを積み、やがては己の世界を確立してきたではないか…。


まだあるビジネスチャンス


 ビジネスチャンスと言えば、林氏の著作「日本を捨てて、日本を知った」の中に、
 「友人夫婦から年賀のファックスが届いた…低調きわまりない日本ですが、今日、元旦ばかりは周囲におごそかな雰囲気が漂っています」云々のくだりがある。
 「おごそか」…なんといい響きだろう。
 「万葉の時代から、われわれの誇りは太陽を基としたこの美しき自然と、それによって育まれた海の幸・山の幸、そして人情だった」…我が国には、かつて欧米人も憧れた独自の「日本文化」がある。
 「グローバルスタンダード」のかけ声が、ややもすると日本文化の独自性を薄める合い言葉にもなってしまったように、同質化の発想からは安心感しか生まれない。服のデザインにも、我々が忘れかけていた「和」の良さを加味したグローバル服がもっと出回って欲しいものだ。


                      ◇     ◇     ◇


 オーストラリアに“亡命”した林秀彦氏が、どうなったか、小説「老人と棕櫚(しゅろ)の木」(03年、PHP)から、「赤い傷口にピンセットで触れてしまった」時のような感覚を伴って窺い知ることができる。

 あの頃の“師”の年齢をとっくに超えている今の私は、「先生に会いたい」と思う。それは「同窓会的な思い」などでは決してなく、どちらかといえば「かつて恋した女(ひと)」を思う気持ちに似ているようだ。が、一方で、なぜか先生の消息に自ら耳をふさいで、不謹慎にもその隔靴掻痒を楽しんでいるところがある…。

〔PHOTO:林秀彦 提供 DOMINANT LIMITED〕

《ファッショントークより》

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