神の汚れた手(上・下)/ 曽野綾子 | 我が家の本棚

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お酒や音楽、趣味のバレエ、鉛筆デッサン、ナンタケットバスケット関連話も時々。


昭和54年朝日新聞の
創刊100年を記念した
1月25日付の朝刊から
連載開始
その年の12月31日
334回で終了

昭和55年第1刷発行

曽野綾子著
「 神の汚れた手 」上・下
photo:01



義母が
「曽野綾子さんの古い作品なんだけど
凄いのよ!読んでみる⁇」と
我が家に持ってきてくれました

……

湘南の産婦人科医、野辺地貞春。
彼の元にやってくる様々な事情の
女性達。子供を待ちわびる妊婦だけでなく、不妊に悩む夫婦、中絶を望む未亡人、子宮の無い女性、知的障害を持つ娘の妊娠に悩む親族、、、。
生まれた子を殺してほしいと、暗に頼む母。ようやく授かった子が羊水検査でダウン症と判明し、産まない決意をする高齢の夫婦。出自を問わず赤ん坊を養子として受け入れるアメリカ人夫妻。自然分娩で産まれる子供でなければいらないと言いきる夫。。。

貞春は産婦人科医として自らの倫理観で処置を施し、患者達を送り出す。

(´・_・`)
産婦人科の病院を舞台に、色々な患者さんが登場します。それぞれが抱える事情に驚いたり同情したり、憤ったり情けなくなったり。
主人公の貞春が感情に流されず、冷静に淡々とあたたかく女性達を診る姿勢に打たれます。

彼は友人でクリスチャンの筧瑤子と
宗近神父の前でこんな発言をします。
「仮に中絶が非常に悪いことだとする。僕は患者に、できたら生めと一応は言うんですよ。でも殆どの患者はやめない。
すると、誰かがやる他はない。自分の手は汚さないでおいて、誰か別の医者のところへ行って手術してもらっておいで、というのは汚くはないですか。
それなら、むしろ僕がその役割を引き受けたいね。」

人間が、自分は誰をも傷つけずに生きていられると思うのは、イマジネーションの欠乏による一種の愚かさである。
たとえ医者ではなくても、誰もがいいことも悪いこともしている。生かしも殺しもしている、と貞春は納得している。ただ医者は直接にそれをやり、多くの人は間接的にしかするチャンスがないというだけの違いである。
………


曽野綾子さんが40代の後半で書かれた作品だと思いますが、彼女の考え方の土台を見つけることが出来ます。
カトリックの信者でありながらも、中絶を真っ向から否定してはいません。
ただ現実に現場でどんな問題が起き、どのように折り合いをつけているのかを描写しています。

m(_ _)m
凄い本でした、やはり尊敬します!

そしてちょっと別の角度から
感じたことを・・・

この本は
昭和54年に朝日新聞の朝刊で
1年間連載された小説
ここ数年の、文字が大きくなり
難解な漢字や熟語を使用せずに
やたらと平仮名を多用するようになった新聞ではなく、昔の新聞

書く側も大人ですが
この内容に1年間喰いつき
読み切る大人の読者が大勢いたのだと
気づきました


人の誕生と死についてだけでなく
何かと考えさせられた本です


またまた素晴らしい作品と
出会えました(*゚ー゚)ゞ





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