石部宿東見附跡前回の続きです。石部宿は京都から十里ほどになり、旅人が1泊目の宿にすることが多かった宿のようです。
高札場跡、問屋場跡の案内が一緒に出ています。しかし高札場は宿の端に多く問屋場は宿の中ほどに多いのが普通で、一緒にあるのは珍しいと言うか歴史考証が合っているのか疑問です。
所々で紫陽花が色付いています。そろそろ今年も雨のシーズンです。本日も夕方から雨の予報です。所で私の東海道ウォーク日本橋からこの石部まで、一度も雨に降られていません。歩き始めの静岡部分は静岡に住んでいた時に歩きましたし、西半分は、大阪に帰って来てから歩いています。即ち日帰りが多いためだと思われます。予定変更が自由で雨が降っていると、簡単に順延してしまうからです。
無料休憩所がありました。トイレを借りるため入りました。中は囲炉裏もあり、落ち着いた雰囲気でした。無人でしたので自動販売機などを設置するとよいのではと思いました。
小島本陣跡です。明治天皇も宿泊したそうです。碑が建っています。
石部もべんがら色の家が散見されます。但し塗られた年代によって色の褪せ方が異なります。このように最近のものと思われるものは、鮮やかな朱色になります。
宿のはずれです。見附跡は過ぎました。あまり史蹟が残っていない宿でした。
宿を抜けて伊勢落と言う集落の前に名神高速の下を通ります。本日は曇り空ですが、気温と湿度が高く汗を大量にかくものの乾かないので、このようなトンネルは小休止に最適です。
この辺りは宿場感も結構人家が多く、途切れなく町が続いている感じです。その中の蔵にホーロー看板見つけました。金鳥の二枚は、先日箱根で見たものと同じタイプです。東芝も結構赤い下地に書かれたものが見られます。
この辺り(伊勢落)は道路の沿って滔々と流れる水路があります。所々階段がついており、洗い場になっています。
朝水口で見た、ヒゴタイもどきがまたありました。何という花は結局誰もいないので聞く事はできませんでした。→ギガンチウムだそうです。
良い感じの酒屋さんです。サントリーオールド屋号が懐かしい感じです。ここも柱は赤いですね。
見事なベンガラ格子です。これは本一で綺麗なベンガラ色でした。
国寶地蔵尊とありました。地蔵尊の国宝などとはあまり聞きません。中に入りましたが、大きな地蔵が一体祀られていました。それだけでした。しかし紫陽花が見事でした。紫陽花を見ていると雨が降ってもいいかなと言う気分にさせられます。
街道が緩やかに右に曲がる頃、和中散本舗が見えてきました。色々な東海道のページを見ても、戸が閉まって前を通り過ぎるだけのサイトが多いのですが、本日は戸が開いており、中に人が結構いました。聞くところによると、月に一度の第一土曜日は一般公開しているそうです。丁度そのタイミングで訪れたようです。中も見学できるとの事なので、400円の見学料を支払い入ってみました。
和中散とは薬の事です。徳川家康がここを通った時、お腹の薬を献上したとされています。それ以来道中薬として、非常に人気があったとされています。これは、挽き臼です。向こうのわっかをネズミのように人が歩き輪を回して、臼を挽いて粉にしていたようです。
邸内の梁にはツバメが巣を作っていました。五匹の雛が親の帰りを待ち続けていました。
ここは大名や皇族も休息に立ち寄ったとされており、玄関は籠を乗り付ける本陣づくりになっています。欄間も二重欄間で、こちら側は鶴亀で向こう側は、松竹梅となっていました。
縁側からの眺めです。手水鉢の向こうに五月がまだ咲いています。季節的にはピークを過ぎて、地味ですが五月初めころは、池にカキツバタも咲いていたそうです。
上の間座敷とそこからの額縁庭園です。明治天皇も皇后と滞在されたと記録にあるそうです。
予定外の収穫に満足して和中散本舗を後にしました。またたっぷり時間を取って見学したので、いよいよ草津本陣見学は絶望的となりました。
梅の木一里塚です。この辺りは、立場(茶屋)があり、そこそこ賑わっていたそうです。
宿場ではないのですが、風情のある建物が連なっています。小野村と当時は呼ばれていたそうです。
肩かえの松と言うそうです。旅人が持っていた荷物を持ち替えたことから名づけられたようです。木陰で一休みしたと言う事なのでしょう。枝ぶりが二股で、肩を持っているように見えます。
手原村に入って来ました。これは珍しく赤くはなっていません。里内呉服店とあります。ベンガラが着物に着くのを嫌がったのかもしれません。一旦閉店したものの最近再び呉服店として商いを始めたそうです。建物は文化庁管理の登録有形文化財となっています。
稲荷神社とあります。冠はないようです。里中大明神とも呼ばれているようです。1245年創建。江戸期の書物には傘の形をした老松が有名だとの記載が残されています。
九代将軍足利義尚鉤陣所ゆかりの地の碑が有りました。この辺りで暴れていた、六角高頼を討つために出張って来たが相手が逃げ回って、ゲリラ戦法に出たため、義尚は長期間当地に滞在せざるを得なくなり、幕府統治も当地でしばらく行ったとされています。
目川池土手にぶつかりました。東海道は右、左は中郡街道で石部に至る脇街道のようです。
目川一里塚です。字がこういうものなのでしょうか?素人目には子供の字にしか見えません。ここは榎ではなく、椋の大木があったそうです。
この岡村では、菜飯と田楽を供する立て場が三軒あり、その内の二軒の跡碑です。上は、こ志まや(志は濁って濁点があり、じと読む)下は京いせや。結構名物になって流行っていたそうです。この辺りは人口も当時から多く街道筋もずっと人家が途切れなかったのでしょう。
いよいよ草津宿に近くなってきました。常夜燈付きの道標です。「右金勝寺志がらき道」、「左東海道いせ道」とあります。
草津栄講とあります。大峰山の奥馳道とあります。修験者の家なのでしょう。
16:40中山道との分岐に到着しました。本日の終了予定地点です。左中山道右東海道です。本陣は100m程大津寄りにあります。
草津本陣です。本日はもう閉館となっています。次回はここの見学からスタートしたいと思います。朝9:00からとあるので、始発で出発しなくても十分間に合いそうです。
中山道を草津駅方面へ歩きます。ここも枯れ川の天井川になっています。下をくぐって草津駅まで10分弱でした。商店街の中を通って行きました。
本日歩行行距離 28.41㎞
時間 8時間40分
寄り道多数で、過去最低のペースでした。
次回は、草津から山科まで20㎞を歩きます。