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最近の国内外のニュースを見ていると、Y、マヤさんからの手紙を思い出すんです。

「古の叡智」の手書き原稿に添えられていた、マヤさんからの手紙です。
前に一度紹介したのですが、再度紹介したいと思うようになりました。

 

マヤさんにそれを言ったところ、
「じゃあ、先に、こっちを説明しとこうか」

「魂にふれるワークセミナー」には、自分で自分のアカシックレコードを読む方法のひとつがセットになっている、という前回記事に関してです。

 

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「魂にふれるワークセミナー」の解説では自分の魂の体感があるところ、「古の叡智」では源の思いのところ、そこに自分のアカシックレコードがある。アカシックレコードという言葉を使う前は、私は「内なる叡智」と表現して伝えていたんだよ。


そして、それら個人のアカシックレコードは、アカシックレコード全体の一部。巨大な図書館の中の一冊一冊の本、というイメージかな。
だから、自分の魂を体感すると、自分のアカシックレコードが読め、アカシックレコード全体を利用でき、他人のアカシックレコードも読める、という仕組みになっている。


ただし、本人の許可なく他人のアカシックレコードを読むのは、タブーだよ。これは、ルールを踏まえた専用の読み方をする場合以外はタブーなんだけど、そのルールと読み方については、真剣に学ぶ人に真剣に伝えたいので、ここでは省略。

 

「古の叡智」の中の絵でわかりやすいかと思うのだけれど、この仕組みで言ったら、アカシックレコードは、いつも自分の内側にあるものだよね。「内なる叡智」だから。
もちろん、自分の内側にあっても、使う人もいれば使わない人もいるし、アカシックレコードを知らなくてもスピリチュアルが嫌いでも、まったく無意識に常に自分の内側につながっていて、自動的に情報の供給を受けている人もいるんだけどね。
自分の内側に自然に備わっているものなら、意識的につながる場合には、常に再現性があるはずのものなんじゃないかな。


だから、「魂の体感において生きる=すべてはひとつの在り方で生きる」ことの仕組みから言ったら、必要な時につながれないのは、自分の魂を体感していないってことになるし、常にはつながりを保てないのは、自分の魂の体感が曖昧で安定していないってことになるよね。
自分がどうしてそうなってしまうのか、どうすればいいのか、その他もろもろの答えもアカシックレコードの中にあるわけなんだけど。


魂の体感において生きる=「すべてはひとつ」の在り方で生きる。

この在り方でいなければ、アカシックレコードにはつながっていることができない。

 

なので、私は、アカシックレコードを悪用することはできないと考えているんだけどね。「すべてはひとつ」の在り方に、そうでない感性が生じることも入り込むこともないから。


ただ、人は、生きているということは、たとえ魂の体感から離れていても、微弱にかすか~に、そこはかとな~く、すべてはひとつの部分とつながってはいるわけで。

なので、何かの瞬間に、意識的にであってもなくてもアカシックレコードにつながることもあるし、ちょっと怖いことを言うと、「人間の脳はテレビのリモコンみたいに簡単にいじれる」と言うモノたちに操作されてアカシックレコードにつながったりして(このあたり、前回記事を参照)、その結果、アカシックレコードにつながった体験をどう捉えるかという本人の選択しだいでは「連れて行かれ」ちゃったりもするんだけど(そういうモノはアカシックレコードそのものや魂そのものにふれることはできないけれど、人間本体のことは利用できるからね)。ま、そもそも、魂の体感において生きる在り方であったら、そういうモノは手をかけてこないわけで。あ、この説明も、ここでは省略。


自分の自由意思でアカシックレコードにつながりたければ、自分の在り方を問う。
再現性がない場合には、自分の在り方を問う。


アカシックレコードにつながって得た情報によって実生活で自分を成長させなければ、自分の魂と現実の自分との間で引き裂かれてしまったり、現実が軋んだり歪んだりしてしまう。うまくいっているようでいて、実は落下高度を上げているだけということもある。
そうなったら、表面的な形や、誰か何かをどうにかするのではなく、結局、自分の在り方に向き合うしかない。そして、自分を成長させるしかない。現実の変化は、その結果なだけだから。
アカシックレコードのあるところ、そこは、「すべてはひとつ」で「自分の魂」の場所だから。
「すべてはひとつ」の全体から、自分の魂から、自分の在り方を問うことを促され、成長を促されている。精神の世界は目に見えないけれど、よくできた仕組みになっていると、つくづく思う。


自分の魂が望みうる限り、そして、それを超えてまでも、今回の人生をどれだけよく生きることができるか、どこまで自分という人間をよくしていくことができるか。

魂の体感において生きることの、すべては副産物にすぎないのだけれどね、スピリチュアル的なことって。

 

だから、魂の体感において生きる在り方=「すべてはひとつ」の在り方が、まずありき。
「古の叡智」のこの考え方で言ったら、私たちは「すべてはひとつ」の中からやってきて、いずれは「すべてはひとつ」の中に帰っていくわけだから。
正々堂々と帰還したい。
そのために、自分の在り方を問うんだよね。
以上、言葉で説明しようとすると硬くなっちゃうんだけど、まあ、なんか、そんなとこ。

 

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マヤさんはよく、セミナーの最後に、
「自分の魂を確かに体感すると、魂の体感で生きている人が一人でもこの世にいたら、一人でも多くこの世の中にいたら、この世界はどんなだろう、と、そう思いませんか?」
と言っていました。


そこで、冒頭の、Yの思いにつながるのです。