空蝉 | 野良翻訳家・HanaBananaの Enjoy Life!

夏ですねぇ。    

本日は外回りからスタート。    







暑さで連日ヘトヘト、昨日はあまりに疲れてデスクで突っ伏していたら 保健室に連れていかれ、うちの会社の保健施設は他に見ない贅沢さで、 あまりの気持ちよさに昇天して、プール後の子供かのようにお昼寝を むさぼりましたね。これで起きたら、優しいお母さん(うちの本物の お母さんではなく)が、おソーメンを茹でてくれてたら最高なんすけど。  


と、バテ気味だったので、本日のランチには牛タンねぎ塩ラーメンにしてみたぞ。    







通勤路の貸し畑、今年は誰かが向日葵をたくさん植えてくれて、 青空とのコントラストが夏を盛り上げて。    









空蝉。
源氏物語、光の君が17歳の時に思慕った女性も、空蝉。 口説きに応じず、薄衣を1枚残してドロンしたところ 空蝉に例えられたけど、詩的には美しいけど、 蝉の抜け殻、見た目は、いくら空蝉が控えめな女性だったとしても 「・・・これぇ?」って思ったかもなぁ。 もともと高貴な生まれでお父上が亡くなったため後ろ盾がなくなって、 光源氏に惹かれながらも身分が釣りあわぬと身を引いた (何も光源氏のためだけではなく、自分も苦しくなるだろうから) 雅な女性、蝉の抜け殻、つまめもしなかっただろうな。

ともあれ、つれなくされた数少ない女性として、 空蝉は光源氏の心に深く刺さります。    


この時代さえ、意志をもって行動する女性は 物語になるってことですよね。    
本来は、女性だろうが男性だろうが 意志を持てっつー話なんですけど。    
いまだにこの国じゃ、回顧主義なのか、責任回避による保身なのか、 こう男性の付属物としての女性の価値、みたいなのが かなり「上」として扱われているような気がしてならないんですよね。 それに甘んじている女性も大勢いますね。 それは、いまや責任回避して楽だっつぅより、 自ら肩身狭くしているのでは?と思うケースも、たまにあります。


例えば結婚のケースであれば、奥さんが働いてもそれはあくまでも 家計のサポート、とか、子供産むのがアタリマエ、とか言う人 いますよね。 もちろん、自分の範囲内で勝手にやってる分にはいいし、 望んでいなくとも、そうならざるを得ない人がいるのもわかっていますが、 そういう生き方を女性の正しい生き方として、 周りや、後続の女性、自分の子供に押し付ける女性って、意外に多い。 その裏には、そこから外れると、女として不幸って価値観もあるんだろうなと感じます。    


私は、色々な意見や生き方があって、自由に選択できれば、そっちの方が 価値観として、思考として、クオリティが高くないか?と 疑問に思うんですけど。   なので、もしも、他人に自分の価値観でものを言うときは、何故、それがベストと言えるのかの理由、「だって私とか私の周りはそうだもの」とか、「女だもの」とかの脆弱な理由ではなく、他人が納得できる理由と共にいったほうが良いのではないかと思いますね。


  こんなこと考えてるうちに思い出しましたが、   コンサル会社にいる時に、やたらその仕事にバリューはあるのか? インパクトはあるのか?イシュー(問題)は何だ? プロソル(問題解決)をして洗い出して 解決策の仮説を立てろ。それを検証、間違っていれば書き換えろ、 とかとかとかー、そんな中にどっぷり浸かっていたんですね。  

この環境にいたことは、私の人生をとても 豊かにしてくれたと、今では感じています。    


だって、この思考回路って、「仕事」ではなく、 「人生」に置き換えられるもの。    


自分の人生にバリューはあるのか?インパクトはあるのか? イシューは何だ?プロソルをしてイシューを洗い出して、 解決策の仮説を立てろ、そして検証、 間違っていれば何度でも書き換えて 自分が好きなことを出来ているか、その先に何らかの目標があるか、 そして、自分の人生をドライブ出来ているか?    


そんな簡単に、ドライに考えられないって ウェットな感情で足元を取られる人も多いと思います。 私も昔、そういう部分を持っていました。


でもね、自分で人生をドライブしていくって事は、 時に、有ったものを切り捨てて、新たなものに手をかけなければ ならない時もあるし、いくら自分が望んでいても適わないモノもある。こうあるべき、こうじゃないといやだ、に 拘って足踏みして、どんどん状況が悪化していることにも 気付かない、とか、時に谷底に落ちることもある。 少なくとも、衰えて、新しいことにチャレンジする精神力も体力も失ってゆく。であれば、すっぱりあきらめなければならない事もあるのです。 欲張って、身の程を知らずな望みに拘るよりも、 身の丈にあった、今の自分に実現可能な目標を1つ1つ 達成していけば(それに伴うイシューを1つ1つつぶしていけば)、 3年後、5年後には、もしかしたら 少し背伸びできるかもしれない、そのための、 切り捨ては、本当のあきらめではないと思うのですよ。    


新しい事象に接するのが怖くて、あるいは面倒くさくて 逃げたり、ごねたりしていても、時間は過ぎますものね。 そして、過ぎている時間と同様に、世の常の事情も変化していきます。であれば、1分でも早く行動して、多少、失敗して辛い思いはしても 何らかを得られる、自分の人生にバリューを持たせることが できれば、ハッピーに感じると思うのですよ。 自分の中に化石のような思考が邪魔して、ハッピーから遠ざかっていないか、拘りを持つことは大切だけど、それがどの時代にも通用する、繰り返される普遍の思考なのか、よく掘り下げる作業を怠ることなかれ、と思うのですよね。


そうやって、自分を見つめ直していくことは、弱い自分を守っていた殻を脱ぎ捨て、盛夏だろうが、冷夏だろうが、己の人生を 精一杯鳴き続けて生きていける、そして尽きる、強さを身に付けることなんだろうなぁと、蝉の脱け殻を見て、思い巡らしました。


私は、生きている間に、あといくつ空蝉を作ることができるのだろうか~。