ほい、今週の筋トレ占い週報でげす。
みずがめ座は、
「肉体的な欲求や欲望に、とても正直になる時期だと思います。
今週は「欲求」「欲望」「体や心が必要としていること」について、
誰かが、貴方の「わからなさ」を
埋めてくれるような場面があるのではないかという気がするのです。」
ですって。おいおい、エロいぞー。
が。その要素がまったく匂わない、、何故だー?
昨日は厳粛ムード一色の日本でしたね。
一年を経て、気づいたことは、やはり一日一日を大切にする気持ちが
強くなったことです。そして、困っている人がいたら、スイと手を伸ばせる
自分でいよう、人が必要とするモノをたくさん持ちえる自分になろう、という
姿勢です。
昨日、私は息子の中学の通学シューズを買いに、大型スポーツ店にいってたのですが、
15時前、店内放送で黙祷といわれると、ワイチャカ遊んでいたおチビちゃん達も
親御さんの「これこれ」のたしなめに、おとなしく黙祷していました。
おチビちゃん達にとっても、去年の3・11は大きな一日だったのかな。
彼らが成長していく過程で、
黙祷が命を落とされた方々を悼む行為であると同時に、
一人一人が未来の作り手だということを意識してくれれば、と思います。
3・11を境に、もしかしたら、多くの方が、それぞれ自分の悩みや困難の小ささに
気づく日になったのではないかと、想像します。
おりしも東北は建設ラッシュで、現場で実働する職人さん達が
集中しているという話を聞きましたが、
それでも、まだまだ元通りにはいかない現実を抱える方々がゴマンといること、
ご家族を失われた悲しみを抱えたままの方々も多くいらっしゃいます。
あの日、深刻な被害を経験していないのであれば、味わった恐怖を、
それぞれ思う・出来る方向で、行動をともなう善行に転換していくことが大切だと思います。
それは、ダイレクトに復興ボランティアに参加することでもいいし、
既存の境遇を幸せに思い、じゃぁ誰かの幸せって何だろうと考えることでもいいし、
どんな形でも、善い・良いと思われる方向に、力や気持ちを注ぐことだと思います。
あの日の後しばらくの間、揺れたけど大きな被害を受けなかった人と
「怖かったね~。あなたはどうだった?」という話題が占めていましたけど、
災害の後、お互いの無事を確認・恐怖を分かち合う行為から
ある種の安心感というものを得ることができるんだなと実感しました。
一方で、いかに自分が不安だったか、
怖くてかわいそうだったかだけを言い募る人に面くらい、
イラっとしたことを思い出しました。
私が働く東京も、直下型大地震が来ると騒がれています。
が、3・11の経験を思い出し、恐怖におびえているだけじゃぁ
いけないと思います。
基本、あぁゆうふうになったら、頼るのは自分です。
政府や自治体がナントカしてくれるとか、マスコミがこう言ってるからとか、
そういう依存・過信体質をちゃっちゃと捨て去って、自分で進路を選ぶこと、
自分で困難を切る抜ける考え方を持つこと、臨機応変に対処する
知識と意識を鍛えておかねーと。
働き盛りの世代なら、内股で「怖かったのぉ~ん」などと、
いつまでも寝言を言うとらんで、
家周り、家族周り、会社周りの防災対策、考えよう。
もしも起きてしまったら、そして大きなケガとかしなかったら、
とりあえず、周りに手を差し伸べられる、
困った人はいないかを考えられる
冷静さを取り戻せる精神を養おう。
よく最近、私のブログが「ブラック・毒舌」要素がぬけて、
ホワイトエンジェルじゃーん!という読者の方々の声が聞こえますが、
まぁ、環境の成せる記事とも言えますが、
「善い・良い」方向に向くことに、そもそもテレやテライはございませんし、
善くなろう、という気持ちは、誰でも持っているんではないでしょうか?
良い人に見られたい、良い人ねと賞賛を浴びたい、という
名誉欲・自己顕示欲とは違いますよ?
「これ、いいことかも!」「これ、誰かが喜ぶかも!」と思ったら、
即、アクション。そこは原始人のようにワイルドに行動!
一方、人間、悪いこと、人を不愉快にさせることに対しては、
いくら感情的になったとしても、
そこには躊躇、迷い、テライがあるべきだと思います。
そこはサルトルのように考えこんだほうがいいと思います。
良いことには、単純でいていいんだと思いますよー。
たとえ、結果、肩透かしに終わったとしても、ですよ!
反して、ネガティブな事には、
初めてのソープじゃないんだから暴発しないで、
一拍置く、立ち止まる、考えあぐねるくらいの
複雑な思考回路を内蔵したほうがいいですよー。
はた迷惑なだけじゃなく、後々自分がイヤな思いしますから。
人間の心には、善い心と悪い心、両方備わっています。
オレの心にホワイトエンジェルとブラックバナナが棲んでいるよーに。
絶対に善い人なんて、いねえのだよ。
かといって、絶対に悪い人も会ったことねぇよな。
理想論ですが、
人間さ、
良心がいかんなく発揮でき、評価される場が提供されれば、
満足して、もっと善いことをしよう、善いことってなんだろなーって
自然に考え始めるもんじゃありませんか?
私はさ、まだまだまだ、そういう「デキた」人間になりきれないけれど、
そういう人間像をイメージして、世の中のことを考えて、
自分の幸せ・満足感を考えるのなら、同時に他人の幸せや満足感も
考えて、生きていこう、そうゆう風に思います。