「印西」名前の由来を歴史から見る | ガネーシャJr.の印西暮らし

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2015年迄印西市ではんこ屋を営んでいたガネーシャJr.と申します。角膜と硝子体の目の病気ではんこ屋を閉店しました。
里山と近郊都市の両立する印西市が大好きで、市内を散歩しながら見た事や行政に感じる事を個人的見解で書いています。どうぞ宜しくお願い致します。

こんにちは、ガネーシャJr.です。

ガネーシャJr.の住む印西(いんざい)市は、2度の合併を経て今の印西市になりました。
最初は1955年、木下町・大森町・船穂村・永治村の一部が合併、印西町になりました。
二度目の合併は2010年印西市(1996年町から市)と印旛村・本埜村が合併しました。


何故に印西の名前が付いたのか、由来を知りたく歴史の本の中から印西の名前の付いた資料を調べてました。

奈良時代律令国家の頃「香取の海」と言う内湾があり、南側の印西地方は下総国印旛郡に属していました。
印旛郡は今の佐倉市・四街道市・八街市・印西市・白井市・富里市・酒々井町・成田市の一部・八千代市の一部・柏市の一部・鎌ヶ谷市の一部・千葉市の一部・栄町の一部です。
明治時代の印旛郷の範囲です。


奈良・平安時代の下総国印旛郡には11の郷があり、印西地方は舩穂郷・言美郷・三宅郷が、印旛地域に吉高郷が存在しました。
印旛郡は他に八代郷・印旛郷・長隈郷・鳥矢郷・日理郷・村神郷・餘戸郷がありました。

舩穂郷は旧船穂村の南部みたいです。船尾・戸神・武西・松崎の遺跡が発掘された場所と多々羅田・結縁寺付近らしいです。
(船尾宗像神社と結縁寺が昔からあります)

言美郷は「ことみ・とみ」と呼ばれ、鳥見「とりみ・とみ」と繋がり、鳥見神社のある地域と言われています。木下別所廃寺や天神台遺跡が中心だったと思われます。
(天神台曽谷ノ窪瓦窯跡と小林鳥見神社)
(鳥見神社は言美郷以外にも存在します)

三宅郷は旧永治村の辺りと思います。
(大六天神社から見た下手賀沼方向)

吉高郷は旧印旛村の辺りみたいです。松虫か岩戸の近くだと思います。
(岩戸泉福寺薬師堂と松虫寺正門)


平安時代中頃に印旛郡は印旛沼を堺に印西条印東条に分割、印西の名称が出来ました。
印旛郡の西が印西の名称だと思います。
(その頃の印旛沼は印旛浦と言う海でした)
印東条は平忠常の乱の戦場になり、被害は大変でした。印西条は歴史に書かれていません。
鎌倉時代の印西条は幕府の公領でしたが、後に荘園となり、印西庄と呼ばれました。


江戸時代に幕府は騎馬や駄馬を確保するため、下総に小金牧(柏市・松戸市・流山市・鎌ヶ谷市・白井市・印西市)と佐倉牧を置きました。
小金牧に属した五牧(中野・下野・高田台・上野・印西)の一つに印西牧がありました。印西牧は水利の便が悪く、新田開発が及ばない地域で印西野と言われた原野でした。
(泉新田大木戸野馬堀遺跡)
江戸時代中期に新田開発を奨励して、印西野の草深で新田開発が行われました。
北総台地の上は水利の便が悪く、土は固く開発は困難でした。開発地の多くは千葉ニュータウンになり、今は強固な地盤がデータセンターに利用されています。


また江戸時代は庶民信仰が発達、印西大師が印西・印旛・本埜から白井の平塚・清戸・神々廻までに及び、札所が設けられました。
(印西大師の壱番札所、小倉泉倉寺)
印西大師詣は田植え前に行われます。巡礼は春に五穀豊穣を願って行われています。


明治時代以降は学校の名称に使われました。
1901年木下町に印西農学校が設立、印西農業学校千葉県立印西農学校となりました。
同じ年大杜村に印西女子工業補習学校が設立、印西女子染織学校印西女子実業学校千葉県立印西実科女学校となりました。
1930年に両校は千葉県立印旛実業学校、千葉県立印旛高等学校になりました。
1958年に木下中・大森中・永治中を統合して印西中学校が開校しました。
(木下交流の杜に印西農学校、後の県立印旛高等学校がありました)


歴史の本の中から印西の付いた名称を取り上げてみました。
印旛沼より印旛郡の西が印西の由来でした。

もっと印西を知りたいガネーシャJr.でした。
でもガネーシャJr.は勝手に思っています。6年前まで印旛を扱う「はんこ村印西木下店」のお店がこの街の西側にあったから、「印鑑は西」の印西なんです。