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ナセバナルトモ

フリーライターとして夢を追いつつ、苦手な家事をテキトーにこなし、二人の子どもと笑って泣いて。うまくいかないことも多いけど、信じる言葉は「ナセバナル」。主婦ライターの明日はあかるい。たぶん…きっと…ぜったいに!!

新潟の本屋さんで 地元企業発行の雑誌を買いあさり、

その中に見つけたのが、

タウン情報誌の「CARREL」でした。



お店の紹介ひとつとっても、

「ちゃんと取材してるな」というのがよくわかるんです。

たとえば、こだわりのメニューなら、

それを作るシェフの思いまで感じられるように

記事が丁寧に書き込まれている。


「この雑誌で 取材記事を書いてみたい!」


そう思った私は、特集企画案を手に制作会社に向かいました。



きっと私のまわりから、「つかってください~~~」っていう

必死オーラが出ていたんでしょうね。

編集長さんは 快く話を聞いてくださいました。



「やるんだったら、ここで自分の本を出すくらいまでがんばって!

夢じゃないから。」



あの言葉は本当に嬉しかったですね。


13年近くたった今でも、

その時のオフィスの風景と一緒に、はっきり覚えてますから。



まずは、ランチの取材からスタート。

駆け出しライター時代にも、よくやっていた仕事でしたけど

心機一転。全く新しい事をはじめるつもりで、

一件一件、訪ねました。


思い出すのは、「おやじ」 という名前の洋食屋さん。


洋食一筋46年(13年前に)というご主人が、

ポークソテーをほおばる私の 向かいに座って、

ず~っとニコニコしながら 料理の話や常連さんの話、

お店の思い出なんかを色々と聞かせてくれて。


「このポークソテー一辺倒の 常連さんもいるんよ。」


なんだか話がはずんで、2時間近くお店にいた記憶があります。



それから、不登校の子供たちのための

フリースクールを取材した時のことも よく覚えてます。


どこにでもあるような一軒家なんだけど、

1階はまるごと壁をぶち抜いたみたいに 広々としていて、

そこに一人、二人と、中学生や高校生の子どもがやってくるんです。


ひとりひとり、行き場のない悩みをかかえた子どもだち。

何をするわけでもないけれど、

好きな場所に座っておしゃべりしたり

スタッフの方が料理をする横に来て、たまねぎの皮を一緒にむいたり…。


印象的だったのは その子たちの顔が なんだかとても穏やかだったこと。


「ここが僕の居場所。無条件に受け入れてくれる場所。」


「ここから巣立って、会社帰りに笑顔で寄ってってくれる子もいるんですよ。」


今、私の娘は14歳なんですが、

クラスにひとりは学校に来られない子がいるそうです。

思春期の子の親になってから、

このフリースクールのことをよく思い出します。


あのスクールのような空気が、家の中にあるのが自然なんだろうなと。




さて、こうして情報誌のライターを謳歌していたわけですが、


そんな折、私の体にちょっとした異変が…。

会社勤めをしていたら、育児休暇は1年間。

だったらフリーも一緒でしょうと、

娘が1歳の誕生日を迎えたのをきっかけに


ひとつアクションをおこしてみました。


香川で仕事をもらっていたクライアントの支社が

新潟にもあったので、

以前お世話になったディレクターさんの名刺をもって

「売り込み」に行ったのです。


このときはじめて、娘を託児所の「一時預かり」にあずけました。

経験された方は みんな同じだと思うんですが、

子どもをはじめてあずける時って

ものすごく 後ろ髪をひかれる思いがするんですよね。


「ごめんね。mamaもがんばるから!まっててね~~~(涙)」


娘の泣き声を背中に聞きながら

ヒールの音をコツコツと響かせつつ、

「mamaモード」から「売り込みモード」へと気持ちを切り替えました。


その会社で対応してくださったディレクターさんは とっても丁寧で、

帰りぎわも エレベーターの前まで見送ってくださり

「それでは よろしくお願いします」と 好感触。

ビルを出たときは 思わず、「よっしゃ~」と 声が出ました。


これでまた、セールスプロモーションの仕事ができる!


急いで娘を迎えにいって、

その日は これから忙しくなる仕事の空想にふけってましたね。


でも しかし!! 世の中そう甘くはなかったんです…


その会社からは仕事どころか、電話のひとつも来ない。

こちらから連絡する勇気もなくて (今なら迷わず営業しますが)、

半年過ぎたあたりで、あきらめました。



もう コネクションをあてにしている場合じゃない。


ちょっと気づくのが遅かった気もしますが 、

だんだん焦ってきた私は、次の作戦を練りはじめました。


まずは、タウンページで「制作会社」の検索。

インターネットじゃないところが、ひと昔前 (13年前) の悲しさですね。

仕事でMacは使っていたんですが、それもワープロ機能くらいで。

頭の中は まだまだアナログでしたから…。

(絵をかいて遊ぶくらい… なんてもったいないMacの使い方…)


ところが、タウンページにのっている社名だけじゃ

なにしてる会社なのか いまいち分からない (泣)。

そこで次にやったのが、


本屋さんに行って、タウン誌や地元情報誌を買いあさること。


これは、効果がありましたよ!

新潟のタウン情報誌で 「CARREL」というのがありまして、

これが、グルメやショップ情報以外にも

しっかりとした特集や取材記事が載っていて

一目で気に入ってしまったんです。


こうなったら一も二もない。

即、「売り込み」です。


さっそく特集記事の企画を5,6案つくって アポイントをとり 持ち込みました…














94年4月某日

おひさまポカポカ、桜も散り始めた香川県をあとに

JR新潟駅に降り立ったhanitomo一家。


4月って まだ冬だっけ?


春になってからの引っ越しで良かった~なんて思っていた私は

その甘さを実感したのです。

新居に次々と運び込まれる荷物の中から

急いで探し出したもの。


それは、ストーブ。


それから、4か月になったばかりの娘の冬服を

急いで買いに走ったのでした。


話をいっきに進めますが、その年の冬がキョーレツでした。

新潟でも10年ぶりくらいの大寒波!!

私は生れてはじめて見ました。


隣の家の軒下にさがる、1メートル近いツララを。


そしてはじめて知りました。

洗濯物は外に干しちゃダメだと。

よく「極寒の地のリポート」なんかで、

濡れたタオルを振り回すと棒みたいに硬くなるヤツがありますが、

まさにあの状態になっちゃいます。


ところで、仕事はどうしていたかと言いますと、

これがまた、なんとかなっていたんです。


滋賀に住む私の先輩ライターさんが、

FAXと電話のやりとりでできる求人広告の仕事を回してくれまして。

子育てで、外出なんてとても無理だった私にとって

それがどれだけありがたかったか。


仕事の時間は、もっぱら早朝。

5時前に起きて、8時前くらいまでパソコンの前にいましたね。

広告のコピー書いて、デザインして、イラスト描いて。


昼間も夜も 1歳前の娘につきっきりでしたから、

この朝の3時間は、私にとって唯一のプライベートタイム。

それに、

社会とつながってる感

が持てたのも、ありがたかったです。


こうしてなんとか細々と、クビをつないでいた私。

娘が1歳の誕生日を迎えたのを機に、


ひとつアクションを起こしてみました…


2度目の転機。

それは、第一子の出産でした。


というか、赤ちゃんが生まれてまだ4か月という時に、

突然の辞令…


新潟への転勤でした。


出産のために少しだけ仕事を休んでいた矢先、

またもや大事なクライアントとさようならをしなくちゃいけない。


正直、今度はヤバイかも…

そう思いましたね。


でもまあ、決まったことは仕方ない。

首がすわったばかりの娘におっぱいをあげながら

引っ越しの準備に追われる日々でした。


ところで、香川県ってとこはホントに穏やか~なところで

冬でも部屋の中にいれば

あったかい日差しを感じていたわけですが、

引っ越し先の新潟はというと

4月といえども まだストーブのお世話になるようなところ。


生まれが山口で、大阪より北には住んだことがなかった私にとって

かなりキビシイ生活が待っていました。


育児と 仕事と 雪国生活。


さて、どうなることやら。

思い起こせば20年前。

ライターを目指して某大手人材会社にすべりこんだ私は、

そこで4年間、求人雑誌と住宅情報誌の広告や編集記事を担当し、

その後めでたく「フリーライター」として独立しました。


世の中は、まさにバブル絶頂期!


駆け出しの私にも仕事は面白いほど入り、

求人広告に会社パンフレット、PR誌に旅行記などなど

取材や執筆に忙しい毎日を過ごしていました。


そのころの年収は500万円近かったかな。


「こんなに楽しくておいしい仕事はない」

って思ってましたね。


転機がきたのは、フリーになって3年目の夏。

それまで6年間つきあっていた彼の転勤に合わせて

結婚することになったんです。


それまでは広島にいたんですけれどね。

当然、広島を離れるわけで。

そうなると、それまでお付き合いのあった

クライアントや制作会社さんからの仕事はなくなっちゃうわけです。

なにしろ取材をメインに活動してましたから。


でも、不思議と何の迷いもありませんでした。


「ま、なんとかなるでしょ」


そこがO型のサガなんですよね。


実際、なんとかなりました。

広島でお世話になっていたライターさんからの紹介で

高松にある大手印刷会社の仕事をもらえるようになったんです。


「ピンチはチャンス」


ってのは本当ですよ。

ここでラジオCMやポスターなどの

いわゆるセールスプロモーションの仕事に出会えました。

収入こそダウンしたものの、経験値があがった分

一歩前に進めた感じがしましたね。


こうして香川の2年間が過ぎたころ、

またまた転機はやってきました…