富士 御室浅間神社 の徳川エネルギーとアマテラス神エネルギー | Love&Joyな魔法使いハニエルさん

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冨士御室浅間神社 - Wikipedia

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A8%E5%A3%AB%E5%BE%A1%E5%AE%A4%E6%B5%85%E9%96%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE#section_1


本宮 山梨県南都留郡富士河口湖町勝山(富士山二合目。飛び地)

里宮 山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951番
位置 北緯35度24分1.15秒
東経138度45分20.9秒
主祭神 木花咲耶姫命
社格等 県社・別表神社
創建 文武天皇3年(699年)
例祭 4月25日・9月9日
冨士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)は、山梨県南都留郡富士河口湖町(旧勝山村)にある神社である。旧社格は県社で、戦後、神社本庁の別表神社となった。旧称小室浅間明神。浅間神社の1つ。本宮である山宮は富士山吉田口登山道の二合目にある。この山宮の境内は富士吉田市の中にある旧勝山村(現在は富士河口湖町)の飛び地である。富士山山中に最初に勧請された神社とされている。河口湖畔の勝山に里宮がある。

非表示歴史

文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって創建されたと伝えられる。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。

天徳2年(958年)には、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建された。中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展した。戦国時代には甲斐武田氏の崇敬を受けた。現在の社殿は、明治22年に再建されたものである。

現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築された。構造は、一間社入母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮葺形銅板葺きであり、桃山時代の特徴をもっている。国の重要文化財に指定されている。

大正14年に県社に列格した。昭和46年には別表社に列せられた。

別当を務めていた小佐野越後守は、戦国時代に小山田氏より境域の尊厳を取り立てさせ、諸役免許や 山中警護役を免許されている。また武田氏より他国の浅間神社を管轄することを任されている。なお、小佐野越後守は個人名ではなく代々引き継いでいる名前である。


武田信玄公祈願所 富士山最古の神社 冨士御室浅間神社

http://fujiomurosengenjinja.jp/index.html
本宮(国重要文化財) ご祭神は、木花開耶姫命
 699年藤原義忠公が富士山二合目へ奉斉し、722年雨屋が建てられた富士山最古の神社。武田家、徳川家をはじめとした有力な武将に保護されてきたが、昭和49年に永久保存のため現在地へ遷祀した。

里宮
 958年村上天皇が、崇敬者の礼拝儀祭の便を図るため老松茂る現在の場所へ造営した。

ご宝物
 山梨県文化財 勝山記、武田晴信(信玄)の息女安産祈願文など古文書25通
 富士河口湖町文化財 武田不動明王、聖徳太子木像、角行像

武田信玄公祈願所 富士山最古の社 冨士御室浅間神社 霊峰冨士をかこむ富士五湖が一角 河口湖畔に鎮座する 武田家三代に渡り崇敬された富士山最古の神社

本宮は富士山最古の社。 699年(文武天皇の御世)藤原義忠公が霊山富士二合目へ奉斉。

里宮は河口湖に面し、喧騒と離れた静寂の中で、 歴史の風を感じられる。

富士山2合目に祭る浅間神社を本宮とし、山梨県富士河口湖町勝山に里宮として鎮座している。祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

例祭日9月9日、花祭り4月25日。

本宮は富士山中に最初に勧請した神社である。

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写真は富士山の二合目より里宮の一部に移築されていた本宮
浅間神社ではなく『 東照御神君 』と書かれています

徳川家康=東から登る太陽を意味しています





~ 徳川家康の死後 ~


奥の院 開山堂 落慶法要 詳細

http://www.shosha.or.jp/kaizandou_rakkei/kaizandou_rakkei.html

 開山堂内陣には東照宮がお祀りされています。東照大権現、つまり徳川家康であり「東照大権現」は神号です。戒名は、「東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」位。または「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」と言われます。
 家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されました。家康は江戸幕府の始祖として東照神君、権現様とも呼ばれ江戸時代を通して崇拝されました。太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)である天照大神は、誰もが知るところですが、「天照」に等しく「東照」としたところに、その偉大さを作り出そうとしたと考えられます。



権現 - Wikipedia

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E7%8F%BE#section_1

権現(ごんげん)は日本の神の神号の一つ。日本の神々は仏教の仏が仮の姿で現れたものであるという本地垂迹思想に基づいた神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示している。


明神 - Wikipedia

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%A5%9E

「明神」とは、神は仮の姿ではなく明らかな姿をもって現れているという意味である。

日本の神道の神の称号の一つ。(天皇を指す場合には「あきつみかみ」と読む。現人神参照。)

それに対し、仏教系の山王一実神道で神号として用いられる権現(ごんげん)は、「神が権(かり)に現れる」、また「仏が権(かり)に神の姿で現れる」という意味である。徳川家康の「東照大権現」が有名である。なお、家康の神号をめぐって、南光坊天海の「大権現」案と、金地院崇伝の「大明神」案をめぐる論争は有名である。


◎ 日光東照宮の正しい名前『 日光東照大権現 』

仏教系の大権現にするか?神道系の明神にするか?でもめた後に大権現になっていますが、宗教を超えて言霊的にも大きな意味があり、エネルギーが変わっています


~ 徳川家康の計画 ~


徳川家康は早い段階から自分自身が東の太陽(アマ神 アマテル神)のパワーを得ようとして藤原家の者を使って探させていたと思われます


久能山~富士 ~日光 不死の道

東照宮を結ぶ謎の直線 | ANAの旅のクチコミ情報サイト-旅達空間-

徳川家康の呪術的な側面

久能山に一年間安置して後に日光へ移した理由

https://tabidachi.ana.co.jp/note/4282


◎ 歴史の闇に暗躍する陰のフィクサー藤原家

様々なご神事を通して行く先々に現れる藤原家のかかわりが見えてきました


富士講 - Wikipedia

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%AC%9B#section_1


藤原講の開祖 角行 - Wikipedia

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E8%A1%8C_(%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%AC%9B)#section_1


角行(かくぎょう、天文10年1月15日(1541年2月10日) - 正保3年6月3日(1646年7月15日))は、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。

非表示概要

角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。

当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという(「フセギ」の原義は未詳のままだが、埼玉県内には現在でも同名の民俗事象が広く見られ、その多くが病魔退散などを目的としている点で冨士講中の「フセギ」との共通性が感じられる)。


1600頃 藤原角行 (藤原の息子)登山。合計128回登り、角材の上に立ち続ける苦行を行い、開眼したとされ、神様の啓示を受けたとして、富士講を開いたとされる



まだホツマツタエが世に隠されていた時代なので瀬織津姫の存在は知られていませんでした

アマテラスエネルギーを得るために、勘違い?により木花咲耶姫の磐座を探していたのではないか?と思われます



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