はぁ・・・もう12月も終わりか。
このブログを放置して3ヶ月くらいたちました。
なんかブログを書く気が起きなくて完全に息切れでした。
しかしブログの何がいいって、少し前の記事を自分で読んで、
「あぁこんなことあったなぁ」とか
「昔の自分はこんなことを考えていたんだなぁ」とか
1人で感慨深く感傷に浸れることですよね。
文章力はないし、語彙も少ないしで
もう見るのもはばかれるブログですけど
思い出としては貴重な存在だと思います。はぁ。
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そういえば今日。久しぶりに映画を見に行きました。
怪人20面相の映画。K-20ってやつ。金城とか中村とか出てる。
洋画の場合は字幕をいちいち見ないといけないのが嫌いで
しかし吹き替え版を見ると周囲の人たちから
「吹き替えだと雰囲気落ちるよねー」みたいな評価をされるから
基本的には邦画しか見ないんです僕。
そんで、このK-20。勝手に年内最後のビッグタイトル。
しかし久しぶりの映画館。
あの暗闇の中、右手にはジンジャエール。
ふかふかのソファ、右手にはフライドポテト。
あぁいう空間って、僕の類まれなる想像力が高まるんですよね。
暗くて、包まれていて、なおかつ口唇の要求を満たして。
まるで、胎児が母体に包まれているようなそんな感覚。覚えてないけど。
そんな退行的な空間の中で僕は
「人間は死んだらどうなるのだろうか」という
永遠のビッグテーマを1人で考えていました。
こんなことを考える僕の意識たちは
きっと僕の脳みそが作り出していると思います。
となると、この高性能脳みそがなくなってしまうと
僕の意識はなくなります。
脳みそがないのなら、僕の意識は意識されなくなります。
意識する主体がないのなら、意識は存在するはずがないはずです。
本当ならこういう考えが1番筋が通っていると思うんですけど
この世の中には、魂っていう考えがあってこれが実に厄介です。
「人が死んでも魂があるじゃないか」
「魂は幽霊になってこの世に留まるんだ」
なんて江原さんを好きなおばちゃんなんかはきっと
こういう話の方が好きなんでしょうね。僕も嫌いじゃないけど。
個人的には、意識の主体はあくまでも脳みそだと思うんですけど
魂信者の場合は、死んだ後の意識の主体は魂そのものに変わります。
意識やら思いでやらは、目にも見えない魂ってやつに乗って
この世の中を浮遊するんだそうです。うじゃうじゃ。
江原さんはこの魂に語りかけて、オーラを見るのでしょうか。
正直、幽霊とか魂とか理解に苦しみます。
あんまり、というか2%くらいしか信じていません。
でもなぜか、深夜に墓に行けとか、理科室に行けとか、
そんなことを言われても絶対に僕は行きません。行けません。
なぜでしょう・・・。
幽霊とか魂とかいないとは思っていますけど
なんというかそういう話を小さい頃から聞かされてきているから
もう僕らの中には潜在的な刷り込みがあるのだと思います。
かの有名なユングは万人に普遍な集合的無意識の存在を主張したけど
きっと幽霊論も、少なくとも日本の中では、集合的無意識です。
こうなったら僕らの意識の力では手に負えません。
「いやいや。俺、幽霊とか怖くないしまじで」
なんて言ってるヤンキーでも、絶対に理科室は怖いと思います。
普遍的な無意識に操作されているから。そこをつけば一発です。
世の中には、どうしても抗えない何かがあるとはよく言いますが
幽霊論や魂論もきっとその1つなんだと思いますね。
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結局こんなことを考えているうちに映画が始まりまして
死後のことなんかすっかり頭から抜け落ちてしまったわけです。
まぁ結局、死後のことは誰も話してくれないから
分からないまま悶々と生きていくんでしょうね僕らは。
さて、マリオでもしようかな。