余韻がいつまでも響く アルプス交響曲 | 日々に、折々に…

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折々に浮かびくることをとりとめもなくつづってみました 風の音を聴きながら…

 人生をなぞるか… リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲である

 リヒャルト・シュトラウスは交響曲を書いたのではなく、交響詩を書いた作曲家だ 交響詩とはシンフォニックポエム、つまり、何かの概念を管弦楽で描く標題音楽である これはベートーヴェンの第6交響曲「田園」に源を発しているとよくいわれる 第一楽章は「田舎に到達した時の愉快な感情の目覚め」、第二楽章「小川のほとりの情景」とこんな具合である 古典派における交響曲では異例の5楽章だし、そもそもこれが交響曲といえるのか?というくらいユニークな交響曲なのだ この流れはベルリオーズの幻想交響曲やリストの交響詩群に引き継がれ、標題音楽からさらに発展してワーグナーの楽劇、そして、リヒャルト・シュトラウスの9つの交響詩と行き着くのだ 絶対音楽と標題音楽、交響曲と交響詩 音楽は聴く側の個人の受け止めでかなり大きく変わるからそんなにはっきりと違いはこうだ!と言い切りにくいのだが、音楽を結果的に聴く側がどう感じたかと、音楽で何かを表現しようとしたかの違いだともいえる アルプス交響曲は交響曲と作曲家自身が書いてはいるのだが、「夜」「頂上」などそれぞれのシーンに標題が付いているし、アルプス登山の始まりから終わりまでを音楽で表している 主人公のテーマやアルプスの山々のテーマなどがはっきりとあり、それらが巧みな和声などによって変奏していく

 しかし、これは単にアルプス登山を描いたのではないのではないかということ アルプス登山のになぞられた人の人生、もっといえばリヒャルト・シュトラウス自身が自らの人生を重ねながら、ふりかえりつつ書いたのではないかということなのだ そう思うと100人もの奏者を必要とするこのアルプス交響曲の深みや高みもリヒャルト・シュトラウスの人生を超えて増し、普遍的な輝きを放っているといえる

 終盤の「余韻」で響くパイプオルガンの響きのように、心にいつまでも響く名曲である