安心vs信頼 | 日々、折々…

日々、折々…

折々に浮かびくることをとりとめもなくつづってみました 風の音を聴きながら…

 「安心・安全の…」などと政治家が連発し、行政もキャッチフレーズのように使うものだから、「安心・安全」ときくとうさんくさく感じてしまうのは私だけではあるまい 「安心」とはなになのか…

 「安心」とは何か危険なことなどが起こる可能性がない、もしかすると…という不確実性がない状態だ だから、「心を安んじる」ことができるのだ しかし、政治家などの「安心」発言にうさんくささを感じるということは、もはや「安心」ではないということとなる

 論語にもあるが、「名を糺す」ことを続けていないと、ことばに対する信頼がどんどんと低下し、もはやことばとして機能しなくなってしまうのだ 例えば、明らかな差別発言を「相手を傷つける発言事案」などとすることはままあるのだが、これを行い続けていると、ことばの定義自体が変わってきてしまうということだ 物事を矮小化するだけではなく、差別発言ということばの意味が変わってきてしまうのである 安心でもなんでもないのに、安心!安心!安心!などと発言し続けると安心ということばの意味が変わってしまいかねない 長い歴史の中で、そのような事例もある

 では、「信頼」は?信頼は字の通り「頼るに信じる」ことである しかし、「信じる」は「安心」のような確実性があるわけではない あくまでもなにかを信じる主体がいて、「信じる」という祈りにも似た心持ちなのである 非常に不確実である 相手に委ねているのだから… この人は信じるに値する、この人だからこそ信じるという自ら離れたところに結果を求めているのである この不確実性を含む「信頼」だからこそ尊いのである

 と考えると、なぜ政治家の「安心」発言にうさんくささを感じるのかといえば、そもそも「信頼」していないからであって、「安心」ということばに、そもそもその意味をみいだしにくくなっているのである