ちょっとした訳があってバイクをお休みにしている。
別にバイクが嫌いになった訳ではないし、むしろ今すぐにでも愛車に跨って出掛けたい気分なのだが、抱えている事情がこれを許さない。
9月の半ば頃には戻れるだろう。元々、重たく湿気た風を受けるのは好きでは無いので、この休みは丁度よいタイミングかもしれない。
こんな時だからこそ、自分とバイクの関係を客観的冷静に見つめなおしてみようと思う。
来年には50才にもなってしまう私は、バイクブームのど真ん中あたりからバイクに乗り始めた。若者が何の迷いも無くバイクに跨っていた時代だ。
詳しい数字は知らないが、あの時代に比べてバイクは1/10以下というレベルでしか売れていないらしい。
理由は色々とあるだろう。
駐車禁止が厳密に取られるようになって、街角のちょっとした隙間に置けなくなってしまったとか、通信費にとられてバイクにかけるコストが捻出できないとか、原付が電動自転車にとって変わられたなど、もっともらしい理由が言われている。
だが私はもっとシンプルな理由からだと考えている。
バイクという乗り物が、現代の安全基準の進化から取り残されて、危険な乗り物として際立ってしまったからだろう。
本音を包み隠さず言えば、バイクは今も昔も危険な乗り物だ。
十数年ぶりにリターンした私が、まず感じた事はこれだった。
何かあったら簡単に死んじまうじゃん、俺はこんなにスリリングな乗り物に乗っていたのかと、心底驚いたものだ。
この危険に自らの意思で身をさらす事は、あらゆる物の安全基準が引き上げられた現代にあってはとても勇気がいる行為だろう。
だからきっと新しい世代にバイクが売れないのだ。
高価なバイクを買いあさっているのは、私とほぼ同年代の、スリルを当たり前に許容していたバイクブーマーの残党ばかりだ。
当時のバイクに比べて、現代のバイクは大きく進化している。
太いラジアルタイヤは信じられない程グリップしてくれるし、
ブレーキにはABSが装備されて、パニックと葛藤しながら前輪が路面との摩擦を失わないように握力を調整し続けるという難しい操作をしなくても安全に停止してくれる。
有り余るパワーで後輪が滑り出すのを電子制御で防いでくれたりもする。
まあ、どれもこれも原始的なまでにシンプルな私のバイクとは無縁なのだが。
同じスピードで走れば、昔のバイクに比べてはるかに安全なはずだ。
だが絶対そうはならない。バイクが安全になった分、危険との距離を本能的に自動調節して、そのマージンをスピードへと変換してしまう。
高速道路を走る四輪をみても分かるだろう。
狂ったように飛ばす営業車は例外とすると、追い越し車線をすっ飛ばして行く車は、メルセデス等を筆頭とした、安全技術に秀でた車が多い事に気づくはずだ。
彼らは何もスリーポインテドエンブレムの威光で威張り散らしているばかりではないのだ。危険との距離を自動調節した結果があの巡航速度なのだろう。
自在の運動性で俊敏に駆け回るスーパースポーツと、一見のんびり走っているように見えるリジッドフレームのクラシックハーレー。
のんびりハーレーの方が安全に見えるだろうが、私はそうは思わない。
固定された後輪は路面の凹凸にはじかれてロードホールディング性能は低く、鉄の塊とも表現できる重量からすれば、何かあったときの回避性能はスーパースポーツに比べて遥かに低いから、ゆっくり走っていても危険との距離は、俊敏に走るスーパースポーツとさほど変わらないはずだ。
さらに突っ込んで言えば、常識的な速度でも危険の淵に近づけるのがクラシックハーレーの魅力なのだと思う。
ゆったりと走り続ける長距離ツアラーも、直距離長時間を走る事で受ける危険の累積総量は同じなのではないのだろうか。
結局のところ、バイクは危険=スリルを楽しむ乗り物なのだと言い切ってしまいたい。
危険だからバイクは楽しい。危険との絶妙な距離をコントロールする事こそがバイクの醍醐味だ。
自己弁護や奇麗事なんか糞食らえだ。
自分で山に登りたいとはこれっぽっちも思わないが、ハードな山行記録を読むのが大好きだ。
自分の生命を自分の能力下に置いて、極限に挑戦する彼らの行為は実に崇高であり、そしてなによりも自由だ。尊敬し憧れる。
自分の命の有りようを自分の意思で完全に決められる事こそが究極の自由なのだろう。
あらゆるしがらみにがんじがらめに縛られている今の自分が、危険を通して小さな自由を取り戻すという事、これこそが自分がバイクに乗る理由なのだ。
だから昔のようなバイクブームは望まないし、同年代のライダーを見る事も、
歪んだ自身の心を鏡で写されているようで、何か居心地が悪く感じるのだろう。
とまあ、これは完璧に私視点のバイク観なので、ほとんど多くのライダーはもっと爽やかな理由でバイクに乗っているであろうし、また、そうあって欲しいものであります(笑)