大阪都構想の是非を問う住民投票を振り返る | 半田伸明のブログ

大阪都構想の是非を問う住民投票を振り返る

先月に三鷹市議選がありました。私は選挙事務所なし、選挙カーなし、そして今回から音出しそのものを一切せずに、インターネット限定で選挙戦を展開しました。詳細は次のテーマに全てあります。
2015三鷹市議会議員選挙

特に、最後の方の、ネット選挙限定の活動の結果および感想をまとめた次の2つの記事はぜひご覧いただきたいですね。

ネット選挙への期待と現実の差

日本は真の民主主義の国ではない

全てに目を通してくださいと我儘を言いたいところですが、特に3つ目に紹介した記事の最後の部分をご覧いただけますでしょうか。一部引用しておきましょう。

「移動の自由というキーワード~(中略)~ある問題を自分の問題として処理しなければならないか否かということではないか」
「自治体レベルでは「自分の問題として」政治参加する必要性があまりない~(中略)~治者と被治者の自同性という民主主義の根幹を考えますと、こういうことは決して褒められたことではない~(中略)~しかし~(中略)~自分の問題として向き合う必要がない以上、民主主義云々以前に個人主義の当然の結論として低投票率はむしろ当然のことかもしれない」
「日本は民主主義の国ではなく、税を取り使う権力者と税を取られる納税者の二極構造でしかない」

有権者の政治参加意志の限界はどこにあるのか?これを探るのが、ネット選挙限定の活動をした最大の動機です。誤解を恐れずはっきりと書きましょう。

「私に関係ないから投票に行かない」
「私に直接関係するから投票に行く」

これに尽きるというわけです。これが良い悪いということではありません。現場の経験としてこのような感想を抱いたということなのです。

前置きが長くなりました。このような考え方を、今回の大阪都構想の住民投票に当てはめてみましょう。

【選挙の構造】
争点に対する賛否はいろいろあるわけですが、選挙を分析する上では冷めた目で見なければならないので、まずは構造の分析から入りましょう。
過去の選挙の分析を書いておきます。2011大阪市長選→2014大阪市長選→2015大阪市議選と並べますと、維新票は75万→37万→37万(千以下は削除)となっています。2014大阪市長選は実際には選挙があってなかったようなものです。この時と直近の大阪市議選と大差ないというのは大きな特徴点です。こういう分析は投票率や議席数ではなく、あくまで投票数が基本なのです。

2011大阪市長選の平松票は52万なので、維新側は75万から37万に落ちた差の38万のうち15万以上取り込めるかが勝負だったわけです。私はツイッターでそれは無理だろうとの予測を書きました。第三極自体衰退中なのです。半分弱の呼び戻しは大変なことなのです。

【なぜ市を廃止「しなければならないか」がやはり不明なまま】
結果としては、維新側は頑張りました。75万から37万の差をほぼ取り戻した形となりました。これにはびっくりしました。
しかし、5万足りない結果だったのです。これをどう考えるべきでしょうか?

先に「日本は民主主義の国ではなく、税を取り使う権力者と税を取られる納税者の二極構造でしかない」と書きました。維新賛成派からの帰結を考えてみましょう。

税を取られる側は潜在的な不満を持っています。自分の金を強権的に取られるからです。この不満が爆発したのが2009政権交代でした。しかし、この不満層を増税という形でがっかりさせた民主党は自滅し、その受け皿という形でいわゆる第三極時代がスタートしたわけです。2011大阪市長選の熱狂もわかります。民主党の衰退が始まった時期に符合しますからね。

取られ損の税に我慢する方は、権力者の行為を批判的に見るわけです。その流れで橋下さんが浮上したのなら、支持層は橋下さんの行為「そのもの」を見ていたはずなのです。大阪府ないし大阪市「独自に」ムダ削減に努めるなら、ひょっとしたら第三極時代はもっと続いていたかもしれません。
つまり、ムダ削減になぜ大阪市を廃止しなければならないか?が未だに良くわからないわけです。そんなの府と市とそれぞれやればいいんじゃない?ということですね。取られ損の税に不満を持つ層に対しては、地道にムダ削減の様子を示せばよかったはずなのに、なぜ都構想を言い始めたのか?言い換えれば、必然性の根拠が浸透していなかったとも言えましょう。
市を廃止しなければムダ削減できないというのは、市レベルでやれるムダ削減をきちんとやったのか?と問われても仕方がない話で、こう考えると2011大阪市長選レベルから維新側が5万減らしたのは、あぁなるほどなと思う部分はありますね。

【お尻に火がついた反対側】
一方、反維新の方はどうでしょうか。もともとの平松票52万に「新たに」18万上乗せという結果になったのです。こちらはこちらでびっくりしました。
しかし、よくよく考えてみますと、なぜ「新たな」票が生まれたのか?と考えると、直接的に自分の問題と関わりがあると捉えた方が多かったと見ることもできるのではないでしょうか。

ある争点があり、その争点があなたに直接影響してくるんですよというのは、本当によく響くのだなぁとあらためて感じ入っているところです。

片や、なぜ市を廃止しなければムダ削減できないのか?がいまいち不明という状態…
一方、お尻に火がついた反対側…

私の経験からだと、このようなまとめになってきます。こう考えると、あの微妙な票差もなるほどなぁとうなづけますね。新たに自分の不利益として捉えた層の新規の掘り起こしが成功したというわけです。維新5万減、反維新18万増ですから、表面的な票差以上に、もうなんといいましょうか、維新側の完敗といって差し支えないでしょう。

さて、ただの住民投票ということで済ませられない大きなポイントがあります。

【景気下降サイクルにおける第二の覚知機会の消滅】
失われた10年とか、20年とか、そういう言葉を耳にした方はかなりいらっしゃることと思います。ここで、小泉構造改革を思い出してください。

小泉構造改革のピークは、あの郵政解散でした。結局、国レベルの改革はなんだかよくわからん状態ですね。
今思えば、これはこれで意味があったことかもしれません。国レベルで危険性を訴えていたわけです。小泉改革となると、とかく賛否が感情的に入り混じりがちなのですが、中身はさておき、あの時期にあの訴えがあったことは意味があることだと思います。

国民は熱狂しました。あの郵政解散は今思うとすごいことだったと思います。取られ損の税に我慢する不満層の大爆発とでも言えばいいのでしょうか。

その後、民主党政権が誕生するわけですが、これも取られ損の税に我慢する有権者の反乱と見ることができますね。もっとも、その後民主党は増税という裏切り手段により、勝手に自滅します。
その受け皿として、いわゆる第三極時代がスタートしたわけです。みんなの党は自分から自滅しました。残るは維新…

もし、維新が大阪都構想をぶち上げずに、淡々と府は府、市は市でムダ削減を進めていってたら第三極は受け皿として永続していたかもしれませんね。

しかし、現実にはその芽はもうないと言ってよいでしょう。

小泉改革のピークから考えると、10年経過しているわけです。国レベルの構造改革がわけわからん状態になり、今度は地方でとなったのですが、これも失敗に終わった…

景気下降サイクル内で、国レベルの失敗→地方レベルの失敗と時間軸で考えると、ひょっとしたら歴史的なターニングポイントとして残るのでは?と思えてなりません。

では、その10年後となると…

2025年です。私は2025年から2026年あたりに、日本は財政破綻をしているだろうと考えています。詳細はこちらの連載を最初からお読みください。

つまり、景気下降サイクルの中では、政策が機能しないことのみならず、政局までもが運命付けられていると思えてくるのです。

今後は、ムダ削減とか構造改革とか、そういうことを主張する受け皿自体がなくなっていくかもしれませんね。そして、一強多弱時代になっていくのです。

ここで冒頭に書いたことをもう一度書きましょう。

「日本は民主主義の国ではなく、税を取り使う権力者と税を取られる納税者の二極構造でしかない」

結果として、国レベル→地方レベルにおける一種の混乱状態を経て、この二極構造がより深化する時代だったと、後世の方々に総括されているのではないでしょうか。
しかも、今後は取られ損の税に我慢する層が、政治への期待を完全に失い、一種の諦めモードに入ることから、ますます国民の政治参加意志は萎んで行くことになるでしょう。

この連鎖が続き、税を取り使う権力者は、借金で行政をまかなうというファイナンスがやがて壊滅し、あぁやっぱり日本は財政破綻しちゃったなぁ…となっていくのかもしれませんね。

今後数年間で、権力者に対し批判的な立場の政治家が、自己保身を図りどんどん一強側には入っていく事態が続出することでしょう。私は、末端のただの無所属おじさんですので、引き続き政治という舞台の劇場入口でそっと見守り続けます。