事前型民主主義から事後型民主主義へ | 半田伸明のブログ

事前型民主主義から事後型民主主義へ

私は常々、日本には民主主義はないと言っています。民主主義の衣をかぶった2つの社会があるだけです。

官寄り政治家と民寄り政治家について
この2頁目をご覧下さい。

1つは、税を取り使う権力者たる官、そしてそれにくっつく人達です。くっつくといってもいろいろありますね。違法なくっつき方といえば、すぐに談合を思い浮かべますね。他にもいろいろあるでしょうし。
合法な(合法なという表現もおかしなものですが)くっつき方としては、いうまでもなく議員が例として挙がります。ある政党が地域割りをしているとしましょう。その地域からの要望をその地域選出の議員が受け取り、それを権力者たる官に依頼をして実現してもらう…そうまさにピラミッド構造ですね。私はこういう議員を官寄り政治家と呼んでいます。
官寄り政治家の特徴は、実は政党間抗争はあまり関係がない事です。いわば、特定の地域ごとに自民派、民主派、公明派、共産派というようなものがあり、政党間抗争のように見せかけながら、いわばムラごとに各派の庄屋さんを選んでいるのが実態です。この現象を一番端的に表しているのが、自治体議会ですね。もちろん首長提出議案に対し、賛否はいろいろでしょうが。「実現」という軸で考え直してみたいのです。

こういう派閥は、最終的には、自己実現の一環として、首長に「お願い」をするわけです。「市民の声を聞け」とかもっともらしく聞こえますが、要は冷めた目で見れば、中継ぎですね。完全無所属の私からみたら、与党野党関係なく、どの政党であろうが、本質は変わらないとみています。
私は以前から不思議だったのです。
なぜこの手の「お願い」ごとを官が直に受けないのだろうと…。

議員及び議会のコストって、バカにならないですよ。三鷹市のようなレベルでさえ、毎年億単位のお金が出て行くのです。

だったら、最初から陳情ないし要望受け付け窓口を、そのまま官内部につくればいいじゃんと思うわけです。

2つの社会と書きましたが、もう1つの方は、取られ損の税を我慢する側です。行財政改革を始め、事業仕分けなど、税を取られる側は税負担を我慢しているのでは?という素朴な疑問を常日頃持っていました。
納税者側に寄り添う、民寄り政治家ともいえる現象は、1度だけありました。かつての民主党ですね。事業仕分けに国民の熱い目線が注がれました。ガソリン値下げ隊もそうですね。あの一連の流れをみてわかった事は、「あぁ、やっぱり、取られ損の税を我慢するというマグマはやはりあるんだな」ということです。

取られ損の税を我慢する側からは、議員とはどのように見える存在なのでしょうか?
はっきり書けば、いらない存在なのかも知れません。権力をチェックするのではなく、権力にくっつき権力者が出した議案はただただ賛成という現象は、やはり理解し難いものがあるのかもしれません。

つくづく民主党が増税政党に堕ちてしまった事は痛い出来事でしたね。我慢する側は完全に政治に愛想を尽かしたのではないでしょうか。取られ損ですが、まだ我慢できる範囲であり、我慢し続けるしかないという事なのかもしれません。

一揆が起きる背景に共通項があるのか?食料事情などいくつか考えられますね。このあたりは様々な歴史学の先生方の本を、一度じっくり読んでみたいですね。

税を取られる側からするなら、理想の議員像は、やはり権力をチェックする姿勢を貫く事ではないかなと思います。

ここで、先ほどの陳情ないし要望窓口のところを今一度みて下さい。

私は、住民要望は、直に官が受けるべきではないか?と考えているのです。これを予算化するかどうかは、あくまで官の権限ですね。
そして、議会に予算案が提出されたら、議員は、権力をチェックする姿勢で、予算をスリム化する方向で動くべきではないか?と考えているのです。

こういう考えからだと、議員数は少数で良いという事になります。もちろん派閥は関係ありません。議員が共同作業で、予算チェックを分担すれば良いのです。

つまり、民寄り政治家側の発想としては、いわゆる要望などの民主主義的要素は、直に官が対象となり、議会はいわば監査機関として動くべきではないか?と思っているのです。

現状はどうでしょうか?
選挙の度ごとに、「私は○○をします!」という声ばっかり聞こえますね。地域名は伏せますが、国政選挙の際にたまたまラジオを聞いていたら、「この地域の為に○○を頑張ります」というのが聞こえてきて愕然としたものです。国政選挙なのに。

つまり、政治家の脳が、完全な庄屋脳になっているわけです。

ここで発想を転換してみたいのです。

入口部分、すなわち選挙はなしにする。
その代わり資格試験にする。
この資格試験は、法律はもちろんの事、経済や歴史など、かなり難しい試験科目がたくさんある。この試験に合格したら、議員になれる。
議員の責務及び仕事内容は、いわば議員基本法のようなものを制定して、細かく規定されている。議員は、「職業人」として、職務に取り組む。

入口部分で資格試験化する事により、世襲であろうが、長老であろうが、誰でも試験さえ受かれば、仕事ができる、つまり入口部分につき、選挙負担をなくしてあげるわけです。

逆に、出口部分を厳しくします。
議員がきちんと仕事していないのなら、リコールできる制度を創設して、しかもリコールしやすくするように制度を整えるわけです。

つまり、資格試験に合格したら、議員として仕事ができるが、ちょっと仕事に手抜きがあると、すぐにリコールされかねないという制度があれば良いのではないでしょうか。

今はどうでしょうか?
選挙負担は大変なものがありますね。私は完全無所属という事もあり、気楽なものです。選挙事務所なし、選挙カーなし、電話がけなし…。
しかし、私のような異端児はごく稀でしょう。通常はしっかりと準備をするわけです。負担も大きいですね。
入口の部分である選挙に比重がかかり過ぎているのです。この現象を事前型民主主義と呼ぶ事にしましょう。

私の提案はどうでしょうか。
事前というよりは、リコールされたくないという意味で、いわば事後型民主主義と言えるのかもしれませんね。

なんか突拍子もない事をいい始めたなとバカにされる覚悟で(笑)、今回のエントリーとしますが、選挙があるたびに、今まで書いたような事を考えてしまうんですよ。

民主主義はなく2つの社会があるだけ。
民主主義という衣があるだけ。

ならば、少しでも民主主義「っぽく」する為に、現状の制度の限界を考え、理想的なあり方は何かを考えてみたいのです。