美延大阪市会議長は議長職を辞する必要があったのか? | 半田伸明のブログ

美延大阪市会議長は議長職を辞する必要があったのか?

美延大阪市会議長が、議長の職を辞する意思を固めたとの報道が流れました。

不信任決議の大阪市議長、辞職の意向 「12月に」

この記事にあるように、「3会派は、美延氏が自身の政治資金パーティー会場で市立高校の吹奏楽部に演奏をさせていたことを問題視し、先月26日に不信任決議を可決した。」という過去の経過があります。ここの3会派とは、自民・民主・公明とのことですね。

では、決議文はどういう文章なのでしょうか?探したところ、次のところに決議文がありました。
美延大阪市会議長に対する不信任決議案採択される!

9/26の出来事から1ヶ月近く経ったのですね。

さて、この決議文に、次のようなくだりがあります。
「政治資金パーティーで演奏をする行為は、政治的支援を意味する行為であることから、当然、教育の政治的中立性に反することは明白である。」

私は、妙な違和感を抱きました。パーティーに呼ばれて演奏したというだけで、「教育の政治的中立性に反する事は明白」とまで果たして言い切れるのだろうか?…と。

そこで、「教育の政治的中立性」という言葉で少々調べてみたのです。そこで、次の質問主意書に辿り着きました。
教育の政治的中立性に関する質問主意書
ここに、「教育の政治的中立性の意味は何か」という問いかけがありますね。

答弁はこちらになります。
「「教育の政治的中立性」とは、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第十四条第二項が「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と規定しているなど、多数の者に対して強い影響力を持ち得る教育に、一党一派に偏した政治的主義・主張が持ち込まれてはならないことを意味するものであると理解している。」とありますね(引用)。

ここでわかることは、
・教育とは、多数のものに対して強い影響力を持ち得る、ということ。
・その教育に、一党一派に偏した政治的主義・主張が持ち込まれてはならない。
の2点です。

つまり、「教育の場面に」持ち込まれてはならないと言っているのです。ここで疑問が生じるのです。

学生たちに演奏させることそのものが、特定の政党を支持と言い切れるか?
政治資金パーティーの会場は、「教育の場面」と言えるか?

そうは言い難いと、私には思えるんですよ。学校の教室で、維新の議員が維新の考えを述べるのは、まさにこの答弁にある状況と言えるかもしれませんが、場所は教室ではないのです。教えているわけではなく演奏しているだけです。しかも、多数とは言い切れないですね。その部に所属する学生達に限定されて演奏しているのでしょうから。

ここで改めて先ほどの決議文を見ると、論理の飛躍があると考える余地が十分にでてくるわけです。

前提としてお断りしておきますが、今回の行為については決してよろしくないものですし、本来は議長自身が能動的に辞めてしかるべきだったとは思います。
しかし、どうしてもやめないのなら、例えば本会議場で陳謝させその旨議事録に残すとか、議会内部で先例事項として追加するとか、やりようはいくらでもあった事案とも言えます。
それを議長不信任決議という形でやめさせるなら、せめて教育の政治的中立性につき、もう少し緻密な文章が良かったのではないかと思えてならないのです。ましてや、先ほど紹介した質問主意書の件もあります。

もっと、はっきり書けば、能動的にやめる事は当然ありですが、多数決という力でもってやめさせることができる事案とは言い切れないと考えているのです。

事前にこの決議文が配られて、修正の余地がないのであれば、私だったら本会議場で多分質問したでしょう。特に先ほど紹介した質問主意書の件を聞くと思います。質問主意書の答弁はそうかもしれないが、私達は教育の政治的中立性とはこう思うのだ、というのなら、最初から決議文に盛り込まれてしかるべきですし。

私は、どの政党にも所属しないいわゆる完全無所属議員ですので、特に維新を応援しているわけでもないし、どちらかと言うと否定的に見ています。とはいえ、この決議文のまま採決となったら、もし私がその現場にいたら、後にブーイングを受ける覚悟で多分反対しただろうなぁと考えているところです。

これまで書いてきたように、論理構成に飛躍があると思えるので賛成の余地がなくなってしまうわけです。

賛成、反対と言う手の上げ下げは本当に重いものです。考え抜いて出した結論でないと手の上げ下げは私はしかねます。首長提出議案に限らず、議員提出議案として意見書なり決議なりあるわけですが、意見書にしても、決議にしても、一つ一つの文言の意味をきちんと考え、一議員として真っ正面から向き合い、自分なりに論理構成をし、賛成なり反対なりすべきだなぁと改めて実感した案件だったのです。

当然、この決議文につきどう思うか?論拠を示しているのだろうと思ったのですが、とある大阪市会議員のツイートで、「賛成・反対の討論はありませんでした」というのを見ました。教育の政治的中立性についての考え方が述べられないままだとしたら、これは大変怖い事ではないか?という気さえするのです。

つまり、「AはBだから、AはCである事は明白である」という論理構成が不十分なまま議長のクビがとれてしまうという先例になってしまったのではないか?と考えてしまうわけです。ある特定の職の地位を、論理構成不十分な案文でクビに出来てしまうというのが、私には本当に怖いのです。もちろん、大阪市会議員の皆さんはそれなりに熟慮されての行動だったのでしょうが、私としても、議員として、諸所の事案に、どのような姿勢で取り組むべきか?自分なりに姿勢を再確認した事案だったと考えているところです。

ストレートに、教育基本法の条文をそのまま書いているのなら、まだ賛成の余地はあるのですが…。場所も、学校ではない場所ですし…。どうしても引っかかるんですよ。私だけ間違っているんでしょうか?

こういう論調がでてくるかな?と思っていましたが、なかなかでて来ないので、私の考え方がやはり異端なのかな?と漠然と思っていたのですが、このまま流れてしまうのもなんだかなぁ…と思い、多くの皆様からの非難を覚悟で、今回のエントリーとしました。

まぁ、今思えば、教育の政治的中立性という言葉自体が、そもそも曖昧すぎるんですよね…。とはいえ、質問主意書の答弁もあるわけで。この引っかかる気持ちを記録しておかないとなぁと考えていたところです。