二大政党制のあり方から考えるー自民党に対抗する政党はどうあるべきなのか? | 半田伸明のブログ

二大政党制のあり方から考えるー自民党に対抗する政党はどうあるべきなのか?

参議院選挙が終了しました。野党が結束できずにバラバラの状態ですから、自民党が大勝するのは当然ですね。
終了後、早くも野党再編だの、生臭い話が出始めました。

異なる価値観を選択させる形での二大政党制は正しいのです。ここで重要なのは「価値観の選択」ということです。ならば、自民党はどういう価値観を持つ政党なのか?を考える必要があります。
軍事や外交や、もう様々な論点があるわけですが、以下の記述は半田の個人的な感覚に基づくものです。いつものように、粗いまとめ方になってしまいますが、お茶の時間にでもお読み下さい。

私は、自民党とは、一言で言えば、税を集める官が編成する予算に地域の要望を組み込ませ、国官主導で国を動かす組織と理解しています。ここには、政治主導だのそういう概念はありません。ひょっとしたら、予算編成時点で要望を組み込ませることが出来れば、実は政治主導なのかもしれません。

国官主導で設定された予算は一部地方へ来ることになります。国が沈みかけている今、いつ沈むのかを景気サイクル分析から想定し、次の世代が立ち上がりやすくできるように、今のうちから傷を浅くしておくことが、現在の政治家に課せられた使命であると考えます。このような価値観を共有する政党が、私が見る限りではまだ出現しておりません。

かつての政権交代は、「何をやるか?」を選択させたものでした。「コンクリートから人へ」という言葉がありましたが、要は「使うことそれ自体」は変わらず、使い先の新たな選択肢を出したにしか過ぎなかったと思えるのです。民主党政権が破綻に終わった以上、価値観の対立軸を改めて考え直す必要があると思うのです。

この新たな価値観とは?

過去何度か書いてきましたが、私は日本は明治維新以降、80年単位で景気の上げと下げをセットで経験するというサイクルの最中にあり、直近の景気の上げのピークの1989年から80年を半分で割った、2030年あたりにかけて、日本は沈んでいく過程だと見ています。
こういうときは、とにかく政策で経済の流れを変えられるとは思わないことです。一種の諦めを共有して、では何をするのが政治の役割なのか?を考える必要があるという考えなのです。

それは、「民の生きるを守る」ということではないでしょうか。
国政場面ではそのことを徹底することが必要という場面でありながら、実は2009政権交代でも良くわからなかったわけです。この実践はまだなされていないと見るべきでしょう。

では、仮にこの価値観を国政レベルで共有できたとして、国会議員は「民の生きるを守る」に終始するという視点から、国家予算の削減を図ることは出来るでしょうか?

一定程度出来るのでしょうが、やはり限界があるのではないでしょうか。東日本大震災以降の補正予算審議日数を見てもわかります。兆という単位がつくお金を数日で審議できるかと言えば、それは無理に決まっています。

となると、資金の受け手、とりわけ地方自治体レベルで、「国から下ろされたお金につき、民の生きるを守るにつながらないものは無視する」という政治風土の醸成が必要になってきます。そのことがわかる首長を誕生させる必要がありますし、また地方議会の議員はこのような姿勢を首長に迫る姿勢が必要になってきます。

不完全レベルとは言え、国政レベルでは国会議員が、「民の生きるを守る」に直結しない事業は切る姿勢を堅持し、一方、地方レベルで「民の生きるを守る」に直結しない予算は必要なく組まないという首長を誕生させる…これら両者の政治家を合体させ、政党として出発する…こういうことはできないものでしょうか。

私はかつて日本維新の会に期待していました。地方発でしたから。しかし、あれもこれもと手を伸ばし過ぎですね。ここが失敗点です。

となると、次に考えなければならないのは、「民の生きるを守る」に徹するという価値観を基本理念とする地方発の緩やかな地域連携ではないでしょうか。

野党がそれぞれの面子に拘り分裂したままなら自民大勝は当たり前なのです。今野党に必要なのは、日本の将来を見据え、価値観を共有することです。政策理念を共有することは本当に大変です。様々な論点がありますから。当然合う合わないが出るわけです。そこで、多くの論点を棚上げにして、論点は絞ることはできないでしょうか。その論点とは、「景気下降サイクル終了まで私達は何をすべきか?」ということです。

私は個人的には今でも維新には期待していたいと感じている者の一人です。先ほど書いた地域政党連携の先を走っているであろうと推測しているからです。今、曲がり角かもしれません。しかし、こういう地域政党を各地で作って、「民の生きるを守る」に終始するという価値観を共有し、それぞれが国政担当者を出し合う。そういうことを模索してほしいと考えているのです。

例えば、民主は東京、維新は大阪とわけてもいいじゃないですか。私はありだと思いますよ。1つのグループが全てを掌握しようとするのではなく、価値観を共有した後に、「担当レベルで分け合う」のです。


税を使う側がいます。
税を取られる側がいます。
税を取られる側は、かつてガソリン値下げ隊などの民主党の行動に、税を取られる側に寄り添う政党として見てきたのです。私はこの点は結構大きなポイントじゃないかと思っています。そりゃ増税路線に出れば、瞬く間に崩れ去るのは無理もありません。これは、納税者の心理がどういう形で出てくるかという問題でもあるわけですから。

政策レベルで景気の大きなサイクルを変化させられないという立場に立ち、景気下降サイクルまでは、税とは本来助け合いの原資なのだから、税の使い道を「民の生きるを守る」に絞る、この理念で、国政でも予算に目を光らせ、地方では下りてきた予算を無視する文化…2030年までこのスタイルで「我慢」をするのです。こういう見通しに立って、縮小均衡を地でいきつつ、次世代の負担を少しでも減らす様な政党の出現を望みたいですね。

膨張し続ける行政国家現象は、そう簡単には止められません。多くのお金を数日の議会の審議で考えられるわけがないのです。物理的に無理です。この意味で官主導なのは現実なのです。

ならば、資金が下りてくる受け手の方で目覚めるしかないのです。

補助金を受ける側の意識改革が今一番求められているんだろうと思うんですよね。地方の側から補助金を積極的に活用して云々というのは、それは結局自分達しか見ていないんですよ。

将来を見据えて、今何をせずに済ませられるのか?を考えなければならない時期なんだと思いますね。

参議院選が終わって、ぼんやりと考えていたことをまとめてみました。