2025年になるまでは、財政破綻の迎え方という観点で、政治の枠組みを考えるべきである | 半田伸明のブログ

2025年になるまでは、財政破綻の迎え方という観点で、政治の枠組みを考えるべきである

先日、アベノミクスについて、成功か失敗かという観点で考えるべきではないということを書きました。

アベノミクスは成功なのか?失敗なのか?

政治は、長期の景気サイクルの前にただ無力でしかなく、まずは大きな日本版の景気サイクルを把握することから始めなければなりません。2025年あたりで底を迎え、数年間底の圏内で推移した後、2030年から再度の上昇に転じるだろうとも書きました。明治維新以降の大きな流れを、81年単位で考えていることから導かれる結論です。

最近の私は、大真面目に、「どういう状態で底を迎えるのか?」を考えています。政治万能論で考えたらなんとでもなるのでしょうが、バブル崩壊以降、何度となく景気刺激策を行いながらも、一向に目に見える上昇が見えない現状では、やはり先を見据えたくなってくるものです。

政治の世界では、社会保障にしかり、道州制にしかり、大きな論点が山ほどあるのですが、これら論点を個々に論じるのではなく、やがて来る底を想定して、いわば1本の大きな幹として着地点を考え、そのことを前提として、個々の論点を、いわば枝として考えるべきだろうというわけです。

底とは何か?これははっきりしています。財政破綻です。2025年頃に財政破綻しているだろうことを前提に、現状を考える必要があります。

問題なのは、どのような状態で破綻を迎えるべきか?です。大げさに言えば、2つ考えられるでしょう。

1)今のうちから、大胆に支出を減らし、つまり現時点から大きな痛みを感じながら、破綻を迎える。現時点から痛みがある以上、破綻の時点でのショックは少ない。

2)今は、借金を重ね、いわば浮き世を満喫し、いきなり破綻を迎える。痛みを伴わずにいきなり破綻が来るのだから、ショックは計り知れない。

私は、「未来の子ども達に借金を残さない」という哲学で議会の仕事をしています。当然1)を選択すべきということになります。

しかし、実は自治体レベルで、つまり条例レベルで痛みを市民と共有というのは、実はなかなかパッと例が浮かばないのです。例えば、三鷹市だけ年金を廃止というのはできないですよね。こう考えると、結局は、国政レベルでどう削減するか?となってくるのです(これは別の機会に別個の論点で記事を書きたいと思います)。

では、現実の国政はどうでしょうか?
とても、1)を選択しているようには見えませんね。

これは無理もない側面があります。というのも、まさにアベノミクスという概念に現れているように、政治で経済を支配できるという思考があるからです。

しかし、私は全く逆の思考回路なので、現状の国政には歯痒さしか感じないのです。個人的には、大きな景気サイクルから総括し、今から破綻に備えるべきか?それとも破綻まで浮き世を満喫するか?を大きく国民に問う政党が出現することを期待しています。

というわけで、現実には2)の路線になってしまっているわけです。

既に1000兆円を超える借金があるのです。現時点で財政が大きくバランスを失しているわけです。デリバティブ国家と言えば良いのでしょうか。1000兆円を超える借金をしてまでして、現在の生活を維持できているわけですから、維持できなくなったら生活レベルを下げざるを得ないのは当然の話です。そのことから目を背けている以上は、2)の路線でどういう状態が実際に発生するかを考えざるを得なくなってくるのです。

私は、実際に財政破綻を迎えるまで、国政における論点はこの1点しかないと思っています。今から苦しむか、後で一気に苦しむか。夢のない話だと良く言われますが、そもそも夢など持ちようのない時代です。

では、仮に上記の様な大きな問いかけをする政党が今後現れたとして、国民が痛みをいまのうちから!となった場合、政治は官に対し予算の削減を言い切ることができるでしょうか?

残念ながら、これは無理だろうなと考えています。先ほど81年サイクルのことを書きましたが、前回のサイクル末期はあの戦争でした。なぜ軍という組織が肥大化していったか?に思いを馳せると、実は同じ過ちを経済の側面で繰り返しているだけの話なのです。同じ周期のサイクルが、前半は戦争、後半は経済破綻という形で最後の形を表しているんだなと思えてならないんですね。

形を変え、実は同じことの繰り返し…。こう考えると、終わりの迎え方は、前回のサイクル時と同じなんだろうなぁという気がするのです。

というわけで、現実として2)を受け入れざるを得ないでしょう。現実には法律を書いているのは官僚ですし(自治体レベルの条例も似た様なもんです)お金の采配も同じ状況で、政治は認めるか認めないかしかないわけですから。官主導政治追随という現象はおかしいという思いから、私のブログは「官閥政治に屈しない」というタイトルにしています。もっとも、ここに政治家特有の庄屋根性が備わることにより、より一層政治主導ができないという側面があるわけですが、これは別の機会にまた書きます。

81年単位の大きなサイクルを2回経験し、我が国は官主導の社会を放棄せざるを得なくなるでしょう。次の時代はどんな状態が待っているのか、これはわかりません。まずは、終わり方を見届けなければなりません。

2)を受け入れつつも、1)の必要性を唱え続ける政治家集団を形成していく必要があります。もし、今後再度二大政党制が発生するとするならば、大きな価値観の分かれ目は、上記の1)、2)のどちらを選ぶかになるのではないでしょうか。

私達は、2009政権交代に夢を見ました。政治主導のあり方が問われたわけですが、本質的な話ではなかったと考えているのです。政治主導とは何か?官主導に対し対決するという発想ではなく、政治家特有の庄屋根性をぶっ壊すところから始めなければならなかったのではないか?長くなりますので、今回はここまでにして、これらは別の機会にまた書くことにしたいと思います。

まとめておきます。
景気の大きなサイクルの前に政治は無力でしかないのだから、それを認めた上で、サイクル終期の悲劇を少しでも減らすべく今のうちから支出を削減すべきか?もしくは、現状のまま推移して、一気に破綻状態を迎えるのか?どちらが良いと思うか?という価値観を国民に問いかける政党の出現が必要であり、2025年まではこのどちらを選択するかで、政治の軸を考え直すべきである、ということになります。

今回も長い文章になりましたが、最後までお読み下さり、ありがとうございました。